昭和43年・消え行く青山通りの電車たち。 [都電のいる風景]
久々に 都電のいる風景
今から42年前の今日= 昭和43年9月29日で廃止になった青山通りの都電。廃止の1ヶ月くらい前に撮影した風景をご覧戴きます。廃止直前に青山通りを走っていたのは、9系統・10系統でした。
飛鳥山の2500 [都電のいる風景]
都電のいる風景(今回の写真はたったの1枚です)
・・・一見バスのようなこの電車、ご存知の方はかなりの都電マニアです・・・ 形式は2500といって、元々は新宿~荻窪間の青梅街道を走っていた都電唯一の1067mm線・杉並線の電車でした。
都電系統版の大町ソース [都電のいる風景]
昭和40年代・都電1500形とつげ義春 [都電のいる風景]
上野広小路の16番 [都電のいる風景]
都電のいる風景
先日見ていただいた上野公園に続いて、今回は上野広小路です、撮影は昭和45年。
私の家の近くを走っていた20番と、松坂屋の角で交差する都電は、大塚駅~錦糸町駅を結ぶ16番でした。
都電20番の記憶。 [都電のいる風景]
都電のいる風景今回は私が最もなじんだ都電、江戸川橋~須田町間の20番のお話です。
昭和44年の都電32・27系統 [都電のいる風景]
皆様は王電をご存知でしょうか?玉電ではなく王電・・・・今の荒川線の前身は王子電気軌道=略して<おうでん>という私鉄だったのです。私が高校の頃は、王電と呼ぶお年寄りも多かったです(JR線を省線という人がいた時代です。~笑)
ちなみにうちの父も王電と呼びたがっていましたね。
都電のいる風景
今の近代化された荒川線とは違って、当時は古い時代の面影が残っておりました。
(1)<戦後のにおい>一杯の情景ですね。戦後になって高田馬場駅まで都電が伸びたときに出来た面影橋の分岐です。どこが道路か線路か?併用軌道か専用軌道かよく分からないですね。後ろに見えるアパートは当時流行った<四畳半フォ~クソング>の舞台になりそうな佇まいです。そういえばここは、神田川のすぐ近くです。当時は早稲田~王子駅~荒川車庫間の32系統がここを走っておりました。7000形は車体乗せ替えで今も荒川線に残っているのはご存知のとおりです。
左に見える15系統の電車は元杉並線(1067mm軌間)の2000形です。後継者2500形とともに荒川車庫所属だった時期もありました。
(2)面影橋から学習院下を経て豊島台地に登ったところが鬼子母神前、わたしの高校の最寄り電停でした。土曜日など此処から電車に乗って大塚や巣鴨の映画館に行ったものです。骨だけの上屋(の残骸)は王電時代からのものでしょう。
電車は都電廃止を見越して登場した経済車8000形です。乗り心地や騒音で人気無かったですが、私は好きな電車でした。
(3)向原~大塚駅前間も不思議な場所でした。軌道の左右は広いのに線路はくねくね曲がって坂を下ります。父曰く『王電の頃はSカーブの左右に家がびっしり建っていた、坂を下る電車はホイッスルを鳴らしっぱなしだった』とか・・・空襲で焼けた跡を整備したが線路はそのまま~ということだったようです。
坂を下る電車は7500形、こちらも更新され残っていますが、今年中に新車に置き換えられるとか・・
(4)王子駅から荒川車庫のあたりは、郊外電車のような高圧線が線路上にありました。この辺りが私鉄買収線=郊外電車の香りでしょうか?この写真は他より古い昭和39年くらいの撮影です。写っている電車は旧王電からの買収車150形です。
(5)京成と接続する町屋駅前も、王電の面影というより、戦後の闇市のような街並みが残っておりました。電車は27系統です。赤羽~王子駅~三ノ輪橋間を走っていました。
(6)終点三ノ輪橋の情景です。明治通り沿いには旧王電ビル(ひょっとして建物は今も健在?)が残っていて、このホームに抜ける通路の上に『王電入口(元)』という看板がずいぶん長く(この頃にはまだあった!)掲げられていました。
近代化された荒川線も良いですが、昭和40年代はこんなだったのです。昭和は遠くなりにけり~
昭和42年・江東ゼロメートル地帯の都電。 [都電のいる風景]
日曜日は津波警報に振り回された一日でした。東京でもウォーターフロントを走る電車は運休でしたね。
最近聞かれなくなった言葉に「江東ゼロメートル地帯」というのがあります。土地が海面より低いのでそう呼ばれておりました。津波が来たらかなり危ない・・・そして今日のお話は、そこを走っていた都電のことです。
都電のいる風景
25系統は日比谷から神田を通って両国橋を渡り、錦糸町駅前をへて西荒川までの路線。
なかでも錦糸町駅前から先は、かつて城東電気軌道という私鉄でした。だからというわけではないでしょうが、専用軌道も多く、江東地区独特のムードの漂う路線でした。
(1)旧中川にかかる専用橋をわたる25系統の1500形です。水面の丸太が木場のお膝元江東区らしいです。
よく見るとお判りでしょうが、鉄橋が太鼓橋のように反り返っています。もともとの軟弱さに加え、工場の地下水くみ上げで地盤がどんどん沈下したため、こうなってしまったとか。
(2)海に近いこの辺りの土地の海抜はゼロメートル以下です。仲を取り持つ鉄橋は、潮が満ちてくるとガーダーが水に浸かります。堤防とともに水に浸かる部分の色が変わっているのが判ります。防潮堤はあったと思いますが、津波がきたら・・・と心配になる光景です。
この頃はそろそろ工場が無くなり、その跡に小さな建売住宅が増えていました。東京のパワーは今も昔も変わりませんね。今なら巨大マンションが建つのでしょう。
(3)中川橋梁に向かう電車は何かをオーバークロスするかのように、勾配を上っていきます。専用軌道は住民の気軽な抜け道でもあったのは、王電(→現在の荒川線)だった区間でも似たような感じでしたね。
(4)終点の西荒川は、電車好きには堪らないムードの場所でした。つげ義春の作品に出てきそうな<絵になる>終点風景。私鉄時代からの架線鉄柱が歪んでいるのもポイントです。
(5)電車の後ろにコンクリートの壁が見えていますが、荒川(放水路)の堤防です。停留所の路面からは優に7~8mの高さがありました。堤防上から電停全景を撮った写真がファン雑誌に載ったのが、ここが電車好きに有名になるきっかけでした。木造アパートと線路をつなぐ梯子とかの小道具が気になります。
1968年9月29日の水神森 - 西荒川間の廃止で、この風景も消えていきました。
今回の写真に登場している電車は全て1500形。戦前の流線形1200形の車体延長改造車です。この頃の25系統は大多数がこの形式でした。都大路には似合わない(?)些か癖のあるデザインも、この辺りには不思議に似合っておりました。
関東ではほんとに久々の津波警報から、こんな電車を思い出しました。
昭和37年・神明町のブリル&ぞろ目 [都電のいる風景]
何度かご紹介していますが、私の父親は電車好き、中でも都電が好きです。彼の作ったアルバムに『神明町車庫にブリルを拾ふ』という頁があります。その中の画像を中心にご覧ください。
都電神明町車庫は文京区の北のはずれ、北区・豊島区との境にありました。20系統(須田町~江戸川橋)40系統(銀座~神明町車庫)が受け持ちで、40系統の廃止までは、小型車1000と1100が多く見られました。
(画像1)神明町車庫前の銀座行き40系統。我が家の最寄りの停留所は一つ目の動坂下でした。銀座まで乗っても子供運賃は10円以下だったと思います。安くて便利でしたが、現代の生活のリズムにはそぐわないですね・・・。
ブリル(Brill)=というのはご存知の方もいらっしゃるでしょうが、アメリカの車両・台車のメーカーの名前です。国産品に代わるまでの明治・大正初期は電車の台車は輸入品で、木造車の更新車である1000、1100はブリルを履いたのが多かったのです。台車の形式はブリル76Eといいました。(都交通局は台車にはD-●●という自前の形式をつけていましたが輸入台車は例外だったようです)
(画像3)なんとも古典的なつくりですね。日本に入ってきたのは明治期でしょう。初期の高速電車の阪神1型や、九軌(後の西鉄北九州線)も同形が使っていましたね。
父はこの台車が好きでしたね。高速電車の台車で有名なブリルMCBをはじめ、ブリル台車は乗り心地が良かったようです。
(画像3)同じ形式でも台車の違うのもありました。こちらは局の形式D-10を履いています。ブリルと並んで有名なアメリカのメーカー、ボールドウィン(Baldwin)製のコピーですね。この様式は広く普及しましたので、ブリルはマイナーな存在のまま消えていきました。
(画像5)神明町の1000、1100の中でも我々親子のお気に入りは、1111=ぞろ目の1100型でした。もちろんブリル台車つきです。都電唯一の<ぞろ目>だったのではないでしょうか?
都電の多数形式でも他にぞろ目はなさそうです。 6000も666両は無かったはずですから・・・
これがやってくると、一日いいことありそうな気がしたものです(父の話)。
40系統は上野から神田・日本橋・銀座と東京のメインストリートを走ります。この区間で1系統の5500形などとすれ違うと、自分が乗っている小型で古い1100が、なんだか恥ずかしいような気がしたものです。
(画像6)昭和40年、芝浦工場におかれていたブリル台車です。
40系統は銀座線廃止と共に運行停止、小型車も姿を消しました。
もう半世紀近く前の事です。
2010-1-31 昭和40年、都電芝浦工場にて。 [都電のいる風景]
都電のいる風景
幼い頃からの電車好きの私にとって家の近所を走っていた都電は最もなじみ深い電車でした。このブログでも時折都電のいる風景をご覧に入れようと思います。
今日は都電7000形の改造作業を見た。というお話しをさせて戴きます。時代はぐっと遡って昭和40年の冬の或る日、父と2人で芝浦2丁目にあった、都電唯一の専用工場だった通称「芝浦工場」を訪ねたときのことでした。
私の父も私に劣らない電車好き=というよりも父のDNAを私が受け継いだというのが正しいのですが=特に都電をはじめとする路面電車→私鉄電車好きでした。そんな父が交通局に芝浦工場の見学を申請し、私がのこのこついて行ったのです。
ちなみに今回の画像はすべて父の撮影です。メカ好きの父らしく台車の写真が多い。
私がカメラ担当だったら構内の情景とか、標識とかのディティールをもっと撮っていたと思います。
(1)オリンピックも終わった当時、都電はすでに邪魔者扱いされはじめていましたから、新車の投入は無いので、工場の仕事は修理と改造でした。
まずは修理工場を見学。7000形の後期車が台車を外されて並んでいました。手前には台車やモーター、様々な部品がおかれています。
(2)7000形後期車に使われていた台車、モーターの無い方の車軸の上にはブレーキシリンダーが見えます。
室内の見学を終えて外に出ました。構内は広いのですが、あまり人影は無く伽藍とした印象でした。
車庫や工場は建物の外や裏に面白いものがあるのでは・・・と思っていたら。やはり見つけました!
草に覆われたトラバーサーの向こうの電車はなにやら作業中です。
7000形初期形(7001~7019)の前面3枚窓化工事です。
(5)改造待ちのトップナンバー、ご覧のように左側に運転台が寄っており、前扉との関係で乗務員から運転台が狭く運転しにくいとの声が上がりました。
折しも乗務員の待遇改善が課題にもなっており、1965年から全車運転台を中央に移動して視界の邪魔になるセンターピラーを撤去、中央窓の大きい3枚窓に改造した、とのことです。直接制御車でマスコンが大形だったのも運転に不便だったようです6
1957年に登場したときはデザイン、塗装ともに好評だったようですし、土佐電鉄600形を筆頭に函館や仙台にも似たようなデザインが登場したのに・・・ 設計ミス、ってことですかね?
父と私は早速改造中の車輌に近ついていきました。
(6)この角度でみると確かに運転台はセンターにあるほうが乗務員は楽そうですね。グレイのパテを塗りたくられ、改造部分以外は方向幕もライトもそのままの状態です。写真を撮りまくる父、「模型の改造と同じですねえ」とか言ってしまった私・・・案内してくださった係員の方は苦笑いでした。
(7)こちらはめでたく改造終了した7006号。ファンの間では今ひとつ評判が良くなかった3枚窓ですが、私達親子は結構好きでした。
(8=参考写真です)改造は第一次形の19両だけで、他はご覧のようなオリジナルのまま活躍していました。写真の7036号は関接制御車でコントローラーも小形でした。
今日はたった一度だけ訪問した都電・芝浦工場の思い出話でした。
ちなみに芝浦工場のあった場所は、<芝浦アイランド>として再開発され超高層マンションが建っています。