昭和42年・江東ゼロメートル地帯の都電。 [都電のいる風景]
日曜日は津波警報に振り回された一日でした。東京でもウォーターフロントを走る電車は運休でしたね。
最近聞かれなくなった言葉に「江東ゼロメートル地帯」というのがあります。土地が海面より低いのでそう呼ばれておりました。津波が来たらかなり危ない・・・そして今日のお話は、そこを走っていた都電のことです。
都電のいる風景
25系統は日比谷から神田を通って両国橋を渡り、錦糸町駅前をへて西荒川までの路線。
なかでも錦糸町駅前から先は、かつて城東電気軌道という私鉄でした。だからというわけではないでしょうが、専用軌道も多く、江東地区独特のムードの漂う路線でした。
(1)旧中川にかかる専用橋をわたる25系統の1500形です。水面の丸太が木場のお膝元江東区らしいです。
よく見るとお判りでしょうが、鉄橋が太鼓橋のように反り返っています。もともとの軟弱さに加え、工場の地下水くみ上げで地盤がどんどん沈下したため、こうなってしまったとか。
(2)海に近いこの辺りの土地の海抜はゼロメートル以下です。仲を取り持つ鉄橋は、潮が満ちてくるとガーダーが水に浸かります。堤防とともに水に浸かる部分の色が変わっているのが判ります。防潮堤はあったと思いますが、津波がきたら・・・と心配になる光景です。
この頃はそろそろ工場が無くなり、その跡に小さな建売住宅が増えていました。東京のパワーは今も昔も変わりませんね。今なら巨大マンションが建つのでしょう。
(3)中川橋梁に向かう電車は何かをオーバークロスするかのように、勾配を上っていきます。専用軌道は住民の気軽な抜け道でもあったのは、王電(→現在の荒川線)だった区間でも似たような感じでしたね。
(4)終点の西荒川は、電車好きには堪らないムードの場所でした。つげ義春の作品に出てきそうな<絵になる>終点風景。私鉄時代からの架線鉄柱が歪んでいるのもポイントです。
(5)電車の後ろにコンクリートの壁が見えていますが、荒川(放水路)の堤防です。停留所の路面からは優に7~8mの高さがありました。堤防上から電停全景を撮った写真がファン雑誌に載ったのが、ここが電車好きに有名になるきっかけでした。木造アパートと線路をつなぐ梯子とかの小道具が気になります。
1968年9月29日の水神森 - 西荒川間の廃止で、この風景も消えていきました。
今回の写真に登場している電車は全て1500形。戦前の流線形1200形の車体延長改造車です。この頃の25系統は大多数がこの形式でした。都大路には似合わない(?)些か癖のあるデザインも、この辺りには不思議に似合っておりました。
関東ではほんとに久々の津波警報から、こんな電車を思い出しました。
行こう、行こうと思いつつ、ついに行けなかった西荒川。中川の水面すれすれの橋は、仕事中の車の中から、しょっちゅう眺めて居りましたが、カメラ持参で行く事はありませんでした。かえすがえすも残念無念。
水神森から南へ、砂町方面への路線は撮りに行ったんですが・・・・一回だけですけれど。
(4)(5)の写真・・・・泣けますね!!
by む〜さん (2010-03-02 14:50)
む~さん様
旧城東電車の区間は一種独特の雰囲気がありました。都電が走っていた頃は東京の街にもそれぞれ異なった空気感を感じたものです。
砂町・東陽方面の写真もいつかご覧に入れたいと存じます。ひき続きご愛読の程よろしくおねがいいたします。
by Cedar (2010-03-04 11:27)
小松川に生まれ青春時代を過ごした私にとって懐かしい写真です。
小松川神社・日新製鋼(大阪鉄板?)の間を疾走する都電に乗り高校・大学へ通いました。小松川4丁目の停留所前でアセチレンを灯りにして古本を売っていたN君兄弟は今どうしているかな?防災拠点で街自体が様変わりしてしまい故郷小松川から遠く離れた身としては亡父母が苦労して育んでくれた地でも有る都電25番やトロリーバス今井線には、涙が出ます。先月還暦になりこの25番線の写真を見て益々望郷の念に駆りたてられました。
by 怪傑ハリマオ (2011-02-20 22:07)
■怪傑ハリマオ様
ご訪問とコメントありがとうございます。私は家は文京区だったのですが、砂町、錦糸町界隈に親戚がありまして、子供の頃から25番はなつかしい系統でした。須田町から両国橋をわたって、錦糸町を過ぎると道路から外れて走るのが面白かったです。写真は高校生くらいの時のものですが、今はこのあたり、まったく変貌してしまいましたね。親戚もすでに転居しております。
by Cedar (2011-02-21 02:16)
現在、小松川在住の者ですが、この写真をみて驚きました。
私は都電が走っていた風景おろか、小松川に下町の雰囲気が
あった時代ですら知らない世代ですから、今とはまったく区別がつかないです;荒川の土手を通り首都高速の下を
通るんですが、その堤防上から今みても面影を感じません。
在ったということ自体不思議です。
でも貴重なお写真ありがとうございます。
こういったことに触れられてよかったです。
by 略してKMG (2011-05-29 18:11)
怪傑ハリマオ様
西荒川終点の近くに住んでいました。写真を見て、子供の頃を思い出しました。ところで私はN君と同級生です。N君はいま、宮城県の大学の先生です。たぶん私たちはニコマツの同級生ですかね。
ドランドラン
by 和田陽一 (2012-10-11 21:24)
小型デッキガーダー橋を主体としたジオラマ製作の為、ネット検索をしたら御ブログを発見し、コメントさせて頂きました。
自宅が小松川の為、旧中川の橋梁の写真に釘付けでした。 まさか自宅の近くにこの様な光景が存在したとは・・・ 貴重なお写真ありがとうございます。参考にさせて頂きます。 m(_ _)m
by CASCO事業部 (2013-01-09 11:27)
■CASCO事業部様
コメントありがとうございます。私が育った頃の東京は至るところ古い電車と街が残っていました。エリアごとの個性も今より際立っていました。
by Cedar (2013-01-09 14:27)
昭和36年、西荒川車庫のすぐ南に有った丸留荘(38年取壊し)から
すぐ北に有った倫勝寺小松川保育園まで車庫の前を通いました。
この付近は当時の子供達には良い遊び場だったと思います。電車にも乗りました。さらに南の荒川の沿に有った小松川2小へ入学しました。京葉道路より南はその当時の面影は有りません。今の2小は母校とは思えません。
オリンピック・防災・都市計画・・。得る物は多くとも,失った物が少なかったとは言えません。
by M・UEDA (2016-05-30 20:37)
西荒川終点近く「福の湯」前に昭和25年から35年まで住んでいました。とにかく懐かしく、嬉しい写真ばかりでした。都電に乗って日比谷の映画館に行ったことを思い出します。今年も開かれる二小松小学校のクラス会(太田先生90歳)での話題にします。ありがとうございました。
by 内田孝吉 (2017-12-16 11:36)
■内田孝吉様
貴兄はじめ、小松川2小(ニコマツ)の方から多くのコメント戴いてます。
こんな記事がきっかけにいろんなことが蘇るなら嬉しいことです。
あの辺りの変化は激しくて、西荒川のあたりも当時の面影皆無ですね。
by Cedar (2017-12-16 14:00)