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上野広小路の16番 [都電のいる風景]

 都電のいる風景

先日見ていただいた上野公園に続いて、今回は上野広小路です、撮影は昭和45年

私の家の近くを走っていた20番と、松坂屋の角で交差する都電は、大塚駅~錦糸町駅を結ぶ16番でした。

(1)s47上野広小路.jpg 

交叉点に差し掛かる16番のサイドビューは恐らく3000形です。D-10台車や経由地を表示する横長の板も懐かしいです。後ろに見える地下鉄入り口のSマークさえ、今は消えてしまいましたね。

(2)s47上野広小路湯島方.jpg 錦糸町方面行きの安全地帯から湯島方向を見ています。鋳鉄製の安全地帯の標識も、この頃は随分少なくなっていました。やってくる7000形改造車錦糸町駅行きです。後ろに聳えている屏風のような建物は、当時景観論争の末に建ったのでしたが、今は周辺の建物に埋もれてしまっています。左側の中ほどに●次郎ビル、という看板がありますが、このビルは大学の女友達のお父さんの持ち物でした。ちなみにビル名は『徳次郎ビル』で、彼女のお父さんの名前と同じでした。

 

今も昔も上野広小路の目印は松坂屋です。文京区のはずれに住んでいた私にとって、いちばん身近なデパートでした。松坂屋前には大塚駅方面の停留所がありました。交差する中央通りに較べ道幅が狭く、お買い物袋を持った主婦などで混雑すると、乗降には注意が必要でした。昭和40年代ともなると交通量も増えていましたしね。

(3~5)s47上野広小路電停3112.jpgs47上野広小路3112.jpgs47上野広小路3000×車.jpg 路面電車の撮影は、常に車に邪魔されました。当時はデジカメなんて便利なものも無かったですし・・・・でも今となっては、写っている車の種類が気になります・・・手前の車種は何でしょうか?

(6)交差点を渡った7000形の後ろに国電御徒町駅のホームが見えます。16番の電車は大塚車庫に所属していて、7000・8000(3の画像の後ろにチラッと8000の姿が写っていますね。)も走っていましたが、主力は3000形でした。6000がいたかどうかは不明です。s47上野広小路7072拡大.jpg

(7)画像2の拡大です。門口に提灯が掲げられ、歩道に飾りつけがされていますね。湯島天神の祭礼が近いのでしょうか?7000形の初期形(01~19)は乗務員待遇改善のために、前面3枚窓に改造されました。この改造工事を芝浦工場見学の時に目撃した(参考写真は下に↓)のも懐かしい思い出ですね。s47上野広小路湯島方拡大.jpg

(8・9)昭和37年・都電芝浦工場・・芝浦工場01.jpg芝浦工場02.jpg

(10)最後に1枚だけ厩橋、石原方面から墨田川を渡って来る16番です。川沿いの首都高速道路も出来ていて、都電の時代は粛々と終わりに向かっていました。撮影の2年後には、現存する荒川線以外は全て消えてしまいました。s47厩橋.jpg

都電16番(大塚駅~春日町~本郷3丁目~上野広小路~厩橋~石原~錦糸町駅)の廃止は、昭和46年3月18日のことでした。


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コメント 8

はーさん

16系統都電拝見しました。
20系統も含めて、沿線に住んでおられた方の都電風景は一味違いますね。小生は、青山に昔住んだことがありますので、9、10系統に思い入れがあります。
しかし、自分が一番なじみのない16系統、19系統などを撮りに行ったことがあります。
 http://6.fan-site.net/~haasan55/Toden16.htm
確かに16系統では6000形は16系統では見かけませんでしたね。
3000形は6000形に良く似ていますが、木造の更新車で、幅も少し狭いと聞いていましたが、本当でしょうか?
7000形が前面3枚窓に改造されたのをCederさんのブログで初めて知りました。改めて見れば、自分の写したものにもありましたが、あまり、都電は詳しく見て居なかったようです。
青山から東急沿線などに移ってしまい、都電から目が離れてしまったようです。
しかし、今になって、都電の素晴らしさを再認識しているところです。
by はーさん (2010-05-28 10:39) 

Tad

松坂屋,懐かしいです。丁度この頃の中元・歳暮時期にアルバイトしてました。ネクタイや靴下の売り場でしたが,浅丘ルリ子によく似た店員さんがマドンナでした。
奥に見える吉池で食料品を買って帰ったこともありました。

16系統は,よく利用していた2・18・35系統と春日町で交差してましたが,窓越しに見た7000の印象が強いですね。白山通りの路線には7000はなかったような気がします。
by Tad (2010-05-29 01:10) 

のり

終末期の路面電車には哀愁を感じるのを禁じえません。あんなに都市交通の花形だったのに・・・
こんど、大阪の阪堺電車に、この都電塗装(クリーム地に赤帯)の電車が1両走ることになりました。また都電荒川線に旧南海大阪軌道線カラー(濃緑に扉と窓枠が赤茶色)の電車が1両、同時期に走るそうです。なかなか粋な企画です。
by のり (2010-05-29 10:05) 

Cedar

■はーさん様
青山にお住まいだったのですね。9番と10番、先んじて消えた6番は城北エリアから見ると随分遠く感じました。3000は確かに木造3000形の更新車で台枠流用の関係で車幅が狭いようですね。
■Tad様
松坂屋は当時の上野では際立った建物でした。私が小学生の頃は屋上から松坂屋が見えましたからね。アルバイトの帰りは須田町乗り換えデ都電ですか?国電の方が速いか。
■のり様
コメントありがとうございます。阪堺と都電の共同企画は嬉しいですね。阪堺はモ501が黄色に赤帯になるようですが、モ501のオリジナル塗装は一昔前の都電と色も塗りわけも似ていました。
by Cedar (2010-05-29 12:25) 

6291

⑯㊴と⑲が交差していた本郷三丁目で生まれ育った者です。懐かしく拝見させていただきました。日本橋や銀座、上野の松坂屋にも都電に乗って行きました。当時幼稚園児だった私は、前面展望が出来るか否かで『高い電車はヤダっ!低い電車に乗るっ!』なんて駄々をこねた記憶があります。お判りの通り、前者は3000&6000形、後者は7000&8000形のことです。小学校の入学祝(だったかどうか…)に
八重洲の銀座アスターに行くのに乗った8000形の『足の裏のむず痒い感触』が⑲の最後の思い出になってしまいました。
交差点のクロッシングの音や吊りかけの音。
子守唄でした。(キザですね…)
by 6291 (2012-04-17 10:51) 

Cedar

■6291様
本郷三丁目の交差点でも何回か撮影したのに、ネガが見つかりません。本当に交差点のすぐそばのお生まれのようですね。本郷通りの看板建築、赤門との組み合わせなど撮ったはずなんですが~。
8000の乗り心地の『足の裏がむず痒い~』って表現、大納得です‼

by Cedar (2012-04-17 12:11) 

6291

本郷三丁目の交番の裏が生家でした。
髭のお巡りさんは、ホントに怖かった…。
グラサンかけてたから尚更だったですし…。
思えば、⑯についてのコメント書くつもりが⑲についてだけになっちゃいましたね、すみませんでした。
⑯の大塚庫には3000も居ましたが、7000や8000
(”低い電車”たち)が来る率が高かった気がします。
上野・御徒町に行くのには⑯か㊴でした。
(㊴は早々に廃止されてしまったので代替539バス)
それにしても、山の手の尾根づたいに走る電車って、すごいですよね…。湯島の切通し坂や、真砂坂とか…。Cedarさんは不忍通り根津辺りのお生まれと勝手ながら拝察しました。千駄木から音羽まで続くアップダウンは、都電たちにとっては、だいぶキツイ仕事だったんではないかと今更ながら思ってしまいます。
by 6291 (2012-04-19 23:01) 

わたなべ

初めてご連絡さしあげます。
テレビ番組を制作しているワタナベというものなのですが、
この記事の中に使用されている写真を番組で使わせていただけないでしょうか?
昔の街並みと現代の街並みを比較するようなコーナーを作っておりまして、その中で使用させていただきたいと思っております。
突然のご連絡で大変恐縮ではございますが、ご検討ください。
cuereo@yahoo.co.jp
までご連絡いただけないでしょうか。
メッセージをお送りする手段がなかったもので、このような形になってしまったことをお許しください。

by わたなべ (2013-03-20 09:51) 

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