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昭和37年・神明町のブリル&ぞろ目 [都電のいる風景]

都電のいる風景。

何度かご紹介していますが、私の父親は電車好き、中でも都電が好きです。彼の作ったアルバムに『神明町車庫にブリルを拾ふ』という頁があります。その中の画像を中心にご覧ください。

都電神明町車庫は文京区の北のはずれ、北区・豊島区との境にありました。20系統(須田町~江戸川橋)40系統(銀座~神明町車庫)が受け持ちで、40系統の廃止までは、小型車10001100が多く見られました。

(画像1)神明町1056.jpg神明町車庫前の銀座行き40系統。我が家の最寄りの停留所は一つ目の動坂下でした。銀座まで乗っても子供運賃は10円以下だったと思います。安くて便利でしたが、現代の生活のリズムにはそぐわないですね・・・。

ブリル(Brill)=というのはご存知の方もいらっしゃるでしょうが、アメリカの車両・台車のメーカーの名前です。国産品に代わるまでの明治・大正初期は電車の台車は輸入品で、木造車の更新車である1000、1100はブリルを履いたのが多かったのです。台車の形式はブリル76Eといいました。(都交通局は台車にはD-●●という自前の形式をつけていましたが輸入台車は例外だったようです)

(画像2)神明町1038.jpg

(画像3)神明町1061台車.jpgなんとも古典的なつくりですね。日本に入ってきたのは明治期でしょう。初期の高速電車の阪神1型や、九軌(後の西鉄北九州線)も同形が使っていましたね。

父はこの台車が好きでしたね。高速電車の台車で有名なブリルMCBをはじめ、ブリル台車は乗り心地が良かったようです。

(画像3)1120.jpg同じ形式でも台車の違うのもありました。こちらは局の形式D-10を履いています。ブリルと並んで有名なアメリカのメーカー、ボールドウィン(Baldwin)製のコピーですね。この様式は広く普及しましたので、ブリルはマイナーな存在のまま消えていきました。

(画像5)神明町1111.jpg神明町の1000、1100の中でも我々親子のお気に入りは、1111ぞろ目の1100型でした。もちろんブリル台車つきです。都電唯一の<ぞろ目>だったのではないでしょうか?

都電の多数形式でも他にぞろ目はなさそうです。 6000も666両は無かったはずですから・・・

これがやってくると、一日いいことありそうな気がしたものです(父の話)。

(画像6)神明町110?万世橋.jpg万世橋の40系統1100形です。

40系統は上野から神田・日本橋・銀座と東京のメインストリートを走ります。この区間で1系統の5500形などとすれ違うと、自分が乗っている小型で古い1100が、なんだか恥ずかしいような気がしたものです。

(画像6)芝浦工場のブリル.jpg昭和40年、芝浦工場におかれていたブリル台車です。

40系統は銀座線廃止と共に運行停止、小型車も姿を消しました。

もう半世紀近く前の事です。


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コメント 8

はーさん

ぞろ目、1111は神明町車庫の車だったのですね。
このブログを拝見し、びっくりしました。
小生も銀座通りで、グリーンとクリームの塗り分けの1111を撮っています。単発の写真なんで、弊HPの「都電33・3系統」の巻末に載せております。
http://6.fan-site.net/~haasan55/Toden333.htm
回送車でしたので、4系統の目黒車庫の車か?40系統の神明町車庫のものか?分かりませんでした。
お陰さまで、神明町車庫のものと分かりました。
弊HPも書き変えたいと思いますが、貴ブログのこのページを記載させて頂いてよろしいでしょうか?

by はーさん (2010-02-18 15:51) 

Cedar

はーさん様
HP拝見いたしました。銀座で食事・天賞堂模型部、須田町のカワイモデル・交通博物館、大塚中町のつぼみ堂・・・みんな都電で行きました。そんな時に1111がくると少し嬉しかった~。
頁の記載、よろしく御願いいたします。
by Cedar (2010-02-18 16:15) 

む〜さん

銀座からの40系統の方向幕は、たしか上野神明町で、わたしはそういう町名があると思い込んでいました。
私は、都電では小型の車輌が好きでしたが、殆ど写真を撮って居りません。惜しいことをしたものです。小型の車輌は、1000、1100、1200、700などで、800もいいなと思っていました。
銀座の天賞堂は高校時代は学校帰りに随分寄り道したものです。米国型の模型が沢山あって、見事なレイアウトがありました。しかし、天賞堂は見るのが主で、買うのは、カワイか、鉄模でした。移動は地下鉄の定期が全線単一料金の時代でしたので、銀座も神田も自由自在でした。
by む〜さん (2010-02-19 22:46) 

Cedar

む~さん様
経由+行き先の方向幕は都電の専売特許ですね。
憶えているだけでも「銀座新橋」「浅草南千住」「砂町錦糸堀」「日比谷三田」
「水天宮浜町」・・・まだあったかも知れませんね。
私が都電で一番好きな車輌は700です。3系統(旧外堀線)専用だった700はいつか模型化したいものだと思います。
都電と模型店の思い出も尽きません。魚藍坂のカツミ、須田町のカワイ、鉄模があったのは元町でしたっけ?美土代町の科学教材社とか・・

なんだか昔話の雑談のようになってしまいました、失礼いたしました。
by Cedar (2010-02-20 01:10) 

Tad

模型社は13番「本郷元町」電停前でしたね。
子供の頃は系統なんて言葉を知りませんでしたから,○番でした。今でもその癖は直りません。
尤も模型社に都電で行った記憶はないです。電車賃が勿体なくて歩いてました。30分もかからなかったんじゃなかったかな。
水道橋にはニューワンと日東科学もありました。

700はいいですね。日本型模型をまったくやらなくなった身としても,地元3番のこの電車だけは作ってみたいと今でも思ってます。思ってるだけですけど,アハハ。
飯田橋の外堀でボートに乗ってると,左手にオレンジ色の中央線と茶色の総武線,右手に700。今と違って高い建物もなく空が広かったなァ…。

昔話になるとつい顔を突っ込むのは悪い癖ですね。ごめんなさい。
by Tad (2010-02-20 03:24) 

こがね丸

西武151系の前面窓が一段高かったのは、川崎造船型の規格電車(阪急、東急、長野に同形車あり)がすべて1段下降窓だったのに対し、西武のみ新しい試みとして2段上昇窓を採用したため、側窓がいくぶん低くなっていたためです。他社の同形車は下降窓のため腰板部分を高めに確保する必要があって窓框が高くなっていたのですが、西武ではその必要がなく、腰板が低めだったわけです。運転台のみ他社の同形車と同じだったので、後に側窓と同じ高さに低め、窓のラインを揃えたようです。これで川崎型の中では最も見映えが良くなっていました。
by こがね丸 (2010-11-10 09:38) 

こがね丸

すみません、投稿の場所を間違えました。西武の下に移動できないようでしたら消去をお願いします。
by こがね丸 (2010-11-10 09:48) 

Cedar

■こがね丸様
ご訪問&コメントありがとうございます。西武の川造型に関する興味深いお話しをご教授戴き感謝です。確かに、東急や阪急の川造型は一段窓で、腰高な印象でした。オリジナルの前面窓が川造標準サイズってことですね・・・。
最後になりましたが、今後も何卒宜しくお願いします。
by Cedar (2010-11-11 01:08) 

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