昭和46年春・新潟交通の元小田急HB車。 [昔の今日のスナップ]
今週の月曜日4月5日は新潟交通電車線が廃止された日からちょうど9年目でした。
それにちなんで(どこが?)、新潟交通の県庁前(廃止時は白山前)で、昭和46年4月に撮影した写真をご覧下さい。3枚全てに写っているのはどこかで見たような電車・・・元小田急のHB車、1400形です。廃車体流用・TC化された姿ですが、オリジナルの面影は残っています。
(写真は前にご覧戴いた小田急時代の姿、昭和40年・世田谷代田~梅が丘間にて)
(1)県庁前駅に到着する電車、クハ36は貫通扉を外して、埋めた上部を方向幕スペースにしているのが面白いです。Hゴムの顔つきもいかにも地方私鉄って感じです。排障器も路面区間のある新潟交通ならではのパーツですね。
(2)県庁前というくらいですから、庁舎がありましたが、道を挟んで建つ庁舎を連絡するブリッジがあって、一般の通行も可能でした。・・そしてそこは絶好の撮影場所。歩道橋よりも高いアングルで白山神社の緑も入れて撮れました。燕行きの電車は先ほどとは別番号。塗りわけも金太郎塗りなので、更に地方私鉄風です。
(3)再び地上に降りて、次の到着電車です。自転車のお姉さん、クルマに気をつけて・・・電車もいいですがこの駅舎がいいですねえ。かつては駅舎の左にも線路があったようです。クハ47は金太郎塗りで方向幕無し、3両とも微妙に違うのですね。サイドは小田急時代と変わっていませんが、改造された客ドアのステップはローカル私鉄ならでは。
新潟交通と小田急の縁はその後も続き、後には2220形がアイボリーとブルーのまま、排障器をつけて入線しました。
この区間は併用軌道が仇となって、いち早く1992年(平成4年)に 廃止 されました。その後部分廃止を経て1999年(平成11年)の4月5日全線廃止となりました。
最後に言い訳=このところ前回の大井町線といい、今回といい お手軽ネタでスミマセン。 些か忙しく、充分なネタ仕込みの時間がありません。ご勘弁の程。
昭和43年春・親子で行った名古屋~関西私鉄その2(4月1日・桑名から奈良へ) [昔の今日のスナップ]
昭和43年春。関西撮影行の2日目です。前夜、親戚の家の法事に顔を出し、桑名の旅館で一泊した朝は、あまり下調べも無いまま桑名駅周辺で撮影しました。まずは旧三重交通→近鉄のナローラインとなった北勢線から・・時間の関係で乗るのはあきらめました。
昔の今日のスナップ
(1)湯ノ山線の改軌にともない、北勢線に入っていた有名な3連接車モ200形が西桑名駅を出て行くところをキャッチ
(2)近鉄マルーンより、旧三重交通色が似合そうですね。もっとも私は旧色は見ていないのですが・・右にチラッと写っている貨車も今や気になりますねえ。当時は興味無かったのか、カメラを向けていないのです。
貨車の止まっている線路が手前に延長されて、現在の駅はその辺りにあるようです。
(3)3連接車の堂々たるサイドビュー!といいたいところですが、手前に線路がいっぱい。一番手前は近鉄(1435mm)、次が国鉄関西線(1067mm)、電車のすぐ手前は北勢線のホッパー線(762mm)と3種のゲージが並んでいます。遠近法が強調されますね。
(4)通常の2連がオーバークロスに向かいます。デニ220は長く主力として活躍した形式です。
当時は経費節約のせいかカラーは最小限。(4)のカメラポジションあたりから、行きかう近鉄の電車をモノクロで撮りました。
(5)今見ても斬新な先頭デザインのビスタカー、北勢線の貧弱なガーダーをくぐります。
当時の名古屋線は特急車・通勤車のほか、旧関急・旧伊勢電・旧大鉄・そして旧参急とバラエティに富んだ電車が行きかっていました。
(6)関急の緑の弾丸。モ6301形の急行、側窓のつくりが独特ですね。
(7)伊勢電独特のスタイルを残すクニ6481形
(8)吉野鉄道→大鉄の全鋼製車、ク6501形
(9)参急のスター2200形(新)、あまりにも有名な電車ですね。
(11)伊勢特急用のエースカー10400形、Tcを2両つないだ編成が特徴です。
(12)普通用の吊り掛け車にはこんな電車も・・一見新型、実は旧型車というモ6440形
この後大阪行きの名阪乙特急ビスタカーに乗車。幸か不幸か(?)中間の階下席でした。
大和八木で橿原線に乗換え、本日の目的地、奈良に向かったのでした。
お目当ては西大寺の構内配線と奈良市内の併用軌道でした・・・一枚ずつご覧ください。
(13)西大寺のポイント群と木造車モ260形の更新車モ460形発着線競合を避けるための贅沢なポイントの使いっぷりが関東には見られないものでした。信号機の向こうには奈良に向かうモ820形が見えています。
(14)併用軌道と旧奈良電改造の京都線特急モ680形+奈良線特急のモ8000形のすれ違い。この併用軌道は全長800mの踏み切り、という扱いだったそうです。
この日は京都に宿泊、桜の京都でポール電車(しばらく前にご覧戴きましたね)、大阪では阪堺線、更に一泊し、和歌山で野上電鉄他を撮影して帰京という、慌しくも充実した4日間の旅でした。
おまけの一枚は阪和快速色の70系です。
こんな旅をしたのも、もう42年も前になるのですねえ。
昭和43年春・親子で行った名古屋~関西私鉄その1(3月31日・豊橋から岐阜へ) [昔の今日のスナップ]
高校・大学を通じて、春休みは鉄道めぐりの季節でした。
昔の今日のスナップ
昭和43年の今日、3月31日は、父と弟と3人での名古屋、関西私鉄めぐりの初日です。
まずは豊橋で下車、目指すは豊橋鉄道渥美線です。なぜか市内線はパスしてしまいました。いかにも近代化途中の感じで様々な車両が入り乱れておりました。古い電車をきれいに整備して大事に使っているのが印象的でした。
(1)その前にちょっと寄り道、飯田線ホームでいきなり流電クモハ52とご対面です。カラーフィルムの発色に問題ありですが、ブルーとオレンジの旧飯田線快速色です。
(2)渥美線の始発駅、新豊橋からの電車に乗ろうとすると乗務員さんの声「高師までしか行かんよ~」。成り行きで、車庫のある高師まで行ってみました。電車はモ1200形、旧静岡電鉄の車輌で中央の扉が両開きだったのが特徴です。高師に着いて、前サボは廻送になったのに乗り込もうとする人が・・・
(3)いたいた!こういう編成が地方私鉄の楽しみです。寄る年波に厚化粧が過ぎる感じでしたが・・モ1300形は元西武、更に小形のク2200形は明らかに元気動車ですね。 こんな車体に不釣合いなダブルライトや新塗装も、いじらしい感じです。旧美濃電の鋼製大型単車と思しきダルマもチラッと見えてますね。
まずは一旦駅を出て、豊橋寄りの松林を抜ける区間で撮影しました。
(5)当時主力となりつつあったモ1800+1850形、旧名鉄3300形の改装です。連結側に寄り添ったパンタが珍しいです。
(6)これも地方私鉄によく見かけた編成です。旧神中鉄道の気動車だったク2400形
(7)当時は急行も走っておりました。控えめな標識がついていますね。(2)と同じモ1200形ですがこちらは新塗装になっていました。 名鉄に準じた新塗装やナンバーの書体など、名鉄の影響はやはり強いようでした。(今や東急の支線のようですが・・)
高師に戻って車庫を見学させていただきました。
(9)田口線廃止に伴って渥美線に転属したモ38。後ろには同じく田口線で使われていたELの姿が。
(10)この当時は貨物も多く、こんないい感じのELもいました。台車が路面用ですから、力は無さそうですけれど。
(11)新豊橋の近くに花田という貨物駅があり、国鉄と貨車の授受をやっていました。豊鉄ELとC58?の出会いです。
(12) 豊鉄のマスコット的存在のデワ33も入換えに使われていました。ファンに人気があり模型にもなりましたね。
この後は、名古屋~犬山~岐阜の名鉄を駆け足でめぐり、名古屋郊外の親戚の家の法事に顔を出しました。駆け足だったので画像も駆け足で。
(13~14)犬山橋の併用軌道で貨物列車をキャッチ出来ました。
(15~16)当時まだ残っていたピンクとマルーン、やはりいい色ですね。
(17~18)名鉄塗装史上最大のチャレンジにして、失敗作!ライトパープル一色塗りへの変更は途中で中止となり、豊鉄に似た(というかこちらがオリジナル)に変更中でした。新旧塗装の5000系です。ライトパープルも記録しておいてよかったかも?(新鵜沼)
結構あちこち行ってしまい、法事に顔出せたのは夜遅くなってからでした。父としては、母親への説得の口実に、法事出席を使った気配がありますね・・・(笑)
次回もこの続きをごらんにいれます。
2005-3-28・岐阜の名鉄600V線訪問(その2) [昔の今日のスナップ]
経路は新岐阜駅前~徹明町~競輪場前~新岐阜という市内のみのルートです。午後から名古屋で仕事があり、終点の関まで行く時間が無かったのは残念でした。
お詫びの代わりにカットとして昭和42年の新関駅の520形、揖斐線直通急行転用前の姿です。
(1)新岐阜駅前からは520の後継者の揖斐線直通にちょこっと乗車、このとき気がついたのですが、忠節までの市内運行用の車両は既に全滅していたのでした。
(2)乗車風景、ターミナルにして安全地帯もないとは・・・路面電車の存続には道路管理者との協調が不可欠なのに・・・。存続させるつもりは無かったということですね。
(3)あれこれ考えながら徹明町へ。かつてのサバーバンジャンクションもいまや寂しい限りです。
右折信号待ち中の新岐阜行きをファインダー越しに見ていると、かつての光景が蘇ってきます
長良北町方面には金沢から来たモ550形が活躍していました。
(8)・・・現実に戻って見ると、美濃町線の電車が到着。
あいにくの雨ですがさすがに多くのお名残り乗車のお客さんです。この中に鉄仲間の姿も見えました。
(Mさん、雨の中ご苦労様でした!)
この電車に乗って、田神線との分岐駅競輪場前に移動しました。
(9)モ600形に変わって入線した連接車モ880形がT字路を曲がるところをキャッチ。手前の線路が徹明町方面です。
(10)競輪場前では上下電車の交換風景が見られます。この風景もあと4日限りです。
(11)電車専用信号も最後のご奉公に励んでおりました。
(12)この風景を見ていると、新車の投資をした甲斐なく消え去るのがもったいないと思えてなりません。そもそも田神線も新岐阜直通のために新設、同時に複電圧車の投入も行ったわけです。当時の積極作を思い出すと、時代の変化の速さ、無常さをしみじみと感じてしまいました。部分低床式のモ800形は2000年(平成12年)7月に運行を開始したばかりでした。
(13)美濃町線の発着する新岐阜駅7番ホーム、廃止を告げるたて看板が現実を伝えます。
(14)そんな気分と裏腹に、廃止記念グッズ売り場が出来て賑わっていました。
(15)いまや名鉄は岐阜の600V線区よりも中部国際空港輸送に大童!ノスタルジーでは飯は食えないのは分かっているのですが・・
この後は(12)の右に見えるパノラマスーパーに乗って名古屋の支社へ、(たった今東京から着いたような顔をして~)駆けつけました。
と言うわけで、今からちょうど5年前、廃止直前の名鉄600V線区のお話しは、終了といたします。
2005-3-27・岐阜の名鉄600V線訪問(その1) [昔の今日のスナップ]
今から5年前の今日のこと。 岐阜の名鉄600V線区が廃止されると聞いて、珍しくも出かけた(実は出張もあったのですが・・)時の画像です。
江戸っ子鉄道ファンとしてはこの頃から顕著になった廃止を巡る大騒ぎには背を向け、「去るものは追わず」を貫いてきました。仕事でも、歓迎会には出るけれど送別会には出ないという風にしていましたのに・・
「過去は振り返らない」なぁんて・・・
所謂「弔い鉄」にはなりたくないと思っていたのですが、この線には思い出も数々あり、好きな電車もたくさんおりました。市内線との直通急行が出来た頃には、毎年のように撮影に来ていたものです。
・・・それが永遠に消え去る日が来てしまうとは・・・この時は大垣回りで、樽見鉄道に乗ってみました。正面きってお別れを言わないで、裏に回って物陰からそっと見送る・・・『ドリフのズンドコ節』みたいです(笑)。
(1)町はずれにある樽見北方駅で上下列車の交換です。当線と今は無き名鉄谷汲線は接近して走る区間がありました。1980年(昭和55年)の冬に、当時の国鉄谷汲口駅まで、雪の中を名鉄北野畑駅(下画像)から歩いたことを思い出します。
(2~3)
(4)時間を巻き戻して2005年3月27日です。大垣寄りで名鉄が樽見鉄道をオーバークロスしています。まずは築堤上の電車を一枚。私の好きな旧型車が消えて以来、実にはじめての訪問なのでした。モ780とは、最初で最後の対面ということになったわけですね。
(5)名鉄の美濃北方駅は町並みの中に・・・しばらくは駅周辺でお名残乗車の地元の方々に混じって、行き交う電車の撮影です。
(9)モ780形の交換。独特のドア配置や、モ600型譲り(?)の精悍な連結器回りがユニークなスタイル、というより必要な装備がスタイルを形作っているのですね。鉄道線区間ですのでステップが飛び出しているのも確認できます。こういう電車、すきだなあ・・
北方から電車に乗り、なにやら混雑している忠節駅は素通りして、今まで撮影したことの無かった忠節橋へ・・・
連接車モ770形の画像を並べてみます。
モ510+モ520の直通急行が開拓してきたルートは、あと5日で消え去ります。
(14)s43撮影。運転開始1年後の姿、黒野付近にて
この日は岐阜に泊まりました。明日3月28日は美濃町線の様子を見に行く予定です。(続く)
昭和46年3月17日・函館。 [昔の今日のスナップ]
今回は39年前の今日、昭和46年3月17日、私は函館におりました。鉄道研究会の春休み合宿は北海道、SLブームの折、ニセコだ大沼だと大童の仲間からドロップアウトして、函館市電を乗ったり撮ったりしていました。
今回ご覧に入れるのは、今や観光名所のひとつ末広町界隈。
当時から絵になる場所でしたが、洒落た店があるわけでなく、町にも電車にも観光客はまばらでした。
港をバックに行き交う市電は、同じ1372mmゲージのせいか、都電7000や8000に似た電車が目につきました。(のちにホンモノの都電7000が転入しました)
開港が早かったので、西洋風のクラシック建築が印象的でした。
(1)の木造建築は健在のようですが、(2)で電車の後ろに見える建物は現存しないようです。写真をよく見ると囲いが出来ていますので、撮影後すぐに消えたのでしょうか?
日本初の冬季オリンピックを翌年に控え、工事現場さながらの札幌と対照的に、夜行列車で着いた函館は、静かな佇まいでした。
それにしてもこの年の春はフル回転でしたね。この合宿の前には、ここでもご覧に入れた四日市や岐阜にも行っていましたから・・、年末年始のバイトの賜物でした。
次回も、<昔の今日>をお届けする予定です。