「1962年夏、あなたはどこにいましたか(Where were you in '62?)」。 [映画・音楽]
記事タイトルは映画『アメリカングラフィティ』のアメリカ公開時のキャッチコピーです。
日本では1974年に公開され大ヒットしたこの映画、時代設定は1962年の夏、北カリフォルニアの小都市の高校生の一夜を描いたものでした。(1)
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そして、映画に描かれる1962年には、カリフォルニアには最後のインタアーバン路線をはじめ、いくつかの電車が残っていました。
残念ながら映画には電車は一切出てきません~当時の若者の風俗を描くのには断然クルマで、電車はお呼びでない、のはあたりまえですね。
1962年はベトナム戦争にのめりこむ前の『明るい時代のアメリカ』が最後の輝きを見せた頃、そんな時代へのノスタルジーを、誰にも覚えのある出来事の積み重ねで描いたこと、当時のヒットソングを多く使ったのも、この映画がヒットした理由でしょう。
映画の冒頭、ドライブインの夕景にRock Around the Clockが流れてきたときには『上手いけどズルイなぁ~!』って思ったものです。
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ちなみにCedarnもコロリと痺れました。
てなわけで~
1962年のアメリカを描いた映画×アメリカントロリー&POPS好きの鉄ブログ=
『アメリカングラフィティの時代のカリフォルニアトロリー』
が今回のテーマです。
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鉄写真のBGM(?)として、映画に登場した'60sヒット曲(のレコードジャケット)もご紹介しちゃいます~と、何ともイージーな企画です。
ちなみに下が映画で使われた主要曲リストです。(興味の無い方は見ないで下さい=目が疲れます)
ロック・アラウンド・ザ・クロック(ビル・ヘイリー&ザ・コメッツ)
シックスティーン・キャンドルズ(ザ・クレスツ)
悲しき街角(デル・シャノン)
ザットル・ビー・ザ・デイ(バディ・ホリー&ザ・クリケッツ)
シー・ユー・イン・セプテンバー(テンポズ)
サーフィン・サファリ(ザ・ビーチ・ボーイズ)
煙が眼にしみる(プラターズ)
リトル・ダーリン(ダイアモンズ)
ペパーミント・ツイスト(ジョイ・ディー&スターライターズ)
バーバラ・アン(リジェンツ)
ブック・オブ・ラヴ(モノトーンズ)
メイビー・ベイビー(バディ・ホリー&ザ・クリケッツ)
グレイト・プリテンダー(プラターズ)
エイント・ザット・ア・シェイム(ファッツ・ドミノ)
ジョニー・B・グッド(チャック・ベリー)
瞳は君ゆえに(フラミンゴス)
踊ろうよベイビー(ボビー・フリーマン)
ユー・アー・シックスティーン(ジョニー・バーネット)
ラブポーションNO9(ザ・クローバーズ)
シンス・アイ・ドント・ハブ・ユー(スカイライナーズ)
ティーン・エンジェル(マーク・ダイニング)
オンリー・ユー(プラターズ)
オール・サマー・ロング(ザ・ビーチ・ボーイズ)
意外と黒人コーラスグループのものが多いですね、日本では60’sというと白人シンガーしか浮かばない(例えばエルヴィス)人が多いですが、アメリカではDOO WOPやR&Bが人気があったことがわかります~実はCedarもこっちの方が好みです。
バディ・ホリーにしてもビーチボーイズにじても、ブラックミュージックの影響が非常に濃いのは、音楽ファンならご存知の通りですね。
映画にはビーチは登場しませんが、カリフォルニア代表とも言えるサーフィンミュージックのビーチボーイズは何曲か使われます。例えばこんなシーンでも・・・(6)
今聞いても、コーラスアレンジは素晴らしい。
ビーチボーイズとくればチャックベリーも忘れられないです。なにしろ『サーフィンUSA』はチャックの『スィートリトルシクスティーン』のパクリですからね。白人によるブラックチャートのカバー、ってか盗作は当たり前だったのが当時のアメリカでした~映画の主人公たちはなーんにも考えてなかったでしょうけど。
そろそろ本題
~カリフォルニアの電車たちin1962の画像です。
'60sのヒットソングをBGMにご覧下さい・・・。
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かっては世界一の電車ネットワークを誇ったロスアンジェルス。
(8・9)
1067mm軌間の市内電車(↑)と、世界最大の電鉄だったPE(↓)の生残り路線はLAMTA(ロスアンゼルス交通営団)が運営していました。
(10~12)PE時代からの壮大な高架のターミナルを出ると、しばらく路面区間~
巾3m、長さ22mの電車は、ゆらゆらと路面を走ったかと思うと~
(13)途中はいきなりの複々線区間です!
外側線には貨物列車とローカル(各駅停車)が走っていました。
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映画にも頻繁に登場したデカ派手なアメ車とインタアーバンの2ショットも'60sならでは。
(15)行き先はロングビーチ~と言ってもビーチボーイズが唄うリゾートではなく、港湾都市でした。
ウエストコースト最後のインタアーバンは、1963年まで走っていました。
PEは大規模な郊外線ネットワークも運営していて、一部は'50年代まで残っていたようです。(16)
1962年にはその殆どが廃止されていましたが、このPCCはアルゼンチンに移住してブエノスアイレスの近郊電車で使われていました。
(17~19)LAから北に上がって第2の都市サンフランシスコ
今も残る路面電車とケーブルカーが走ってたはずです。
上は1962年のマーケット通りですが、PCCに混じって旧形車も残っていたようです。
音楽のほうは、ちょうどこの年、1962年にトニー・ベネットが大ヒットさせた『想い出のサンフランシスコ』がありますが、ティーンズが主役のアメリカングラフィティには出てきません。
サンフランシスコと対岸のオークランドを結ぶベイブリッジには、1958年までキーシステムという電鉄がこんなイカシタデザインの電車を走らせてました。(20)
オークランド・バークレイなど日本人もなじみのあるエリアを走る近郊電車でした。
1962年には、この電車の一部は南米ブエノスアイレスで走っていました。丸ノ内線や名古屋地下鉄の先乗りって訳です。ブエノスアイレスはPEの電車も走らせていたようで、(15)のPCCカーを貫通改造したのやらの写真を見たことがあります。
こちらはもっと北の街Yuba City、サクラメント・ノーザン鉄道貨物列車のStreet Running。
かってはサンフランシスコまで直通の電車も走らせてましたが、1962年には貨物専業でした。
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何となく、映画の舞台はこんな小都市って感じがします。電車は走ってなくても、貨物線くらいはあったでしょう。
カリフォルニアといってもビーチがそばにあるわけでない、なんとも特徴の無い街の高校生のお話、それがアメリカングラフィティ。
この映画に描かれた『明るい時代のアメリカ』は『電車の時代』の最後でもあったのですね。
一方、1962(昭和37)年の日本は東京オリンピック準備の真っ最中。
Cedarはほんの鉄ジャリで、それでも弟と共用で買ってもらったフジペットで情けない鉄写真を撮ってた頃です。
1962年の夏、あなたはどこにいましたか?
→はい。Cedarは祖父母が住んでいた葛飾柴又で、こんな写真を撮っていました。
(22・23)
昭和37(1962)年の京成柴又駅、当時の最新鋭3100形2連をフジペットで撮ったものです。
寅さんなんて影も形も無い頃の柴又は、帝釈天の縁日以外はのんびりしたものでした。
アメリカでは、電車の時代は終わり、高性能なPCCでさえどんどんスクラップになっていましたが、
日本は、高性能電車時代が本格的に始まっていました。
アメリカの音楽は大人気でしたが、英語オリジナルではなく、TVの『ザ・ヒットパレード』などの日本人歌手のカバー(日本語の詞)で楽しんでました。これはCedarがガキだったからでなく、大人も同じでしたね。
1962年の夏、あなたはどこにいましたか
(Where were you in '62?)
え?まだ生まれてない・・・こりゃまた失礼いたしましたぁ!(バーン!)
1962(昭和37)年……、入学前でした。電車といえば、上町線や阪堺線ばかり。そのころの記憶が、今の偏った趣味(笑)を招いたのかもしれません。
タイムマシンがあれば、一番に昭和30年代前半を見てみたいものです。その次に、昭和初期(昭和5、6年頃)に行ってみたいですねぇ…。なんてバカなことを考えています。
by のり (2013-08-20 07:18)
■のり様
1962年の上町・阪堺線、見てみたいなあ。
木造モ101もまだ走っていた頃ですか。
最近のネットは擬似タイムマシン機能がありますね。
★hanamura様
nice!ありがとうございます
by Cedar (2013-08-20 09:56)
1962年の夏は親父に連れられて、初めて関西に行きました。準急「東海」のサロ111で名古屋まで、そこから近鉄モ6421の特急で宇治山田、伊勢神宮参拝。二見浦に泊まって翌日は近鉄モ2250の特急で上本町に。再び近鉄で奈良へ、800系の特急でした。今考えると、どうして八木で乗り換えなかったのか疑問です。東大寺や春日大社に行った後、奈良電で京阪三条へ、1000形でした。三条の鴨川べりの旅館に泊まり、京阪で伏見稲荷に行ったり、1900系で大阪に出て堺の親戚のところに南海で行ったり、京津線260形、石山坂本線(乗るまでは「いしやまざかほんせん」かと思っていました)350形で坂本へ行き、ケーブルで比叡山に。等々関西私鉄ざんまいの1週間でした。なお、帰路は153系急行「せっつ」サロ152で、サハシの寿司屋に行きました。
by EF510-230 (2013-08-20 10:24)
アメリカングラフィティの世界、魅力的ですね。
あの映画のシーンを思い出します。
写真の電車、窓のせいでしょうか25メートルぐらいありそうに見えました。
1962年…親に抱っこされて阪急電車乗ってました〜。
その頃の世界を覗いて見たいです。
by Chitetsu (2013-08-20 13:14)
■EF510-230様
なんともリッチな旅行ですねぇ。
伊勢から奈良の移動、当時八木は特急は通過?
■Chitetsu様
丸窓の電車は元はサンフランシスコ、オークランドを走ってたもので、ベイブリッジを渡っていた仲間もいました。Blimp(鉄の箱)と呼ばれ、ガタイはデカイが鈍足な電車でした。
★あおたけ様
nice!ありがとうございます
by Cedar (2013-08-20 16:10)
記憶はございません。
でも、実家の前を馬車が・・・本当です。
家庭から出る生ゴミ(残飯)を馬車が来て回収していました。
砂利道を、カランカランと鈴?鐘?を鳴らしながら・・・馬をおっかなびっくり見ていると突然、ジョー!!と滝の様に大放尿!!砂利道に穴があいていました
と言う事は、札幌にいました。
by suzuran6 (2013-08-20 17:53)
■suzuran6様
なかなか素敵な記憶ではありませんか!
cedarも馬車の記憶はありますよ。都内もオリンピック前は下水が未整備なエリアが多くて、肥桶積んだ馬車が都電と並んで走る所を見ました。1960年くらいだったでしょうか?
★フジトモ様
nice!ありがとうございます
by Cedar (2013-08-20 20:36)
★モボ様
nice!ありがとうございます
by Cedar (2013-08-20 20:58)
小生満1歳
日本住宅公団の抽選に当たり、都内のアパートから新京成沿線の某団地に引っ越した年 だそうです。 勿論記憶なんざぁございやせん。
まだ単線区間が多く、そこを京成のお古電車が1~2両で走っていた頃ですね。
by nexus6 (2013-08-20 21:51)
■nexus6様
当時の新京成沿線は五香・常盤台・薬円台などに団地がどんどん出来ていた頃ですね。木造車がラッシュに満員のお客さんを乗せて頑張ったおかげで、団地自治会から総攻撃を受けて、あわてて鋼体化されたころでしょうか?
by Cedar (2013-08-20 22:26)
★あるまーき様
nice! ありがとうございます
by Cedar (2013-08-21 00:24)
メルのドライヴインはサンフランシスコにあったものでそこでロケしたそうですが,町としてはジョージ・ルーカスの生まれ育ったModestoがイメージの源泉だったみたいですね。ここは,カリフォルニアを二つに分ければ北になりますけど,三つに分けたうちのCentral Californiaと云う方がいいかも知れません。
モデストのちょい北のストックトンと西のサンノゼ,南に下ったフレズノにはサザン・パシフィック傘下の電気鉄道があって,ポールを振り立てた電車が走っていたのはご案内の通り。しかもそのいずれにも“Hedley-Doyle Stepless Streetcar”がいたのが好き者には堪えられないところです。無論この映画の舞台になった62年には鉄道もドラゴンちゃんも姿を消していましたが…。
62年と云うと,TMSの新年号の表紙が初のカラー(北山麓鉄道!)だったのが忘れられません。河村かずふささんの「汽車と清張」なんて随筆も載ってたし,先日のJAMコンヴェンションで表彰され作品が展示された河田耕一さんの跨線橋も出てましたしネ。
“神業的窓抜き”が伝説となっている松尾緑郎さんの全自作151系「つばめ12輛編成」もこの年でしたねェ。未だに鉄道模型にドップリなのはこの年のTMSの影響大です。
リストアップされた曲ならどれも歌えるのは自慢になるでしょうか? でも62年じゃ忘れちゃいけないThe Four Seasonsの「Sherry」が入ってない!
思えばアメリカンポップスと鉄道模型に狂い始めた年,1962年はそんな年でした。
by Tad (2013-08-21 03:46)
■Tad様
挙げられたTMSの記事の記憶、どれも小学生だったCedarも鮮やかです。河村かずふささんの汽車と清張~のちのVVR(!)へと繋がっていきますね。
TMSとアメリカンポップス~どちらもガキが大人の世界を覗きこむ窓だったような気がします。
by Cedar (2013-08-21 07:20)
"American Graffiti"より何年か後ですが、これと似たような映画で確か"Growing Up"という題名の映画があって、今はなき東急文化会館にあった映画館で見たことがあります。劇中に出てくる挿入歌のラインアップも"Graffiti"と似たような曲ばかりで、あるいはパロディーだったのかもしれませんが。この映画の舞台はUSAではなくイスラエルで、歌ばかりに酔いしれていたこともあってか、「鉄」が出てきたかという記憶はありません。
nexus6様のおっしゃる新京成沿線の団地ですが、私は小学1年の頃だったか、その新京成沿線の常盤平団地にいた親類宅を訪れたことがあり、当時の記憶をたどると、乗った車両の運転台の右側が鉄棒1本だけで仕切られたオープンだったこと、まだ単線区間があったこと、常盤平の駅が踏切に挟まれた真ん中にホームと木造の駅舎があって、そして踏切を渡るとショッピングセンターに直結していたこと、といったあたりが瞼の奥に浮かんできます。新京成の電車そのものは、松戸駅や京成津田沼駅を通る度に見かけるので、年毎に新しくなっていることはもちろんわかっているのですが、乗るほうはそれ以来ほとんどご無沙汰しているので、頭の中に残る風景はまだ半世紀前から変化が止まったままです…。
…そういえば、「常盤(ときわ)」と「常磐(じょうばん)」というのも紛らわしいですねぇ。常磐線を「常盤線」と誤記されることをよく見受けますが、逆に「常磐」と書いて「ときわ」と読むものもあるのでますます混乱してしまいます…。
by 伊豆之国 (2013-08-21 10:29)
■伊豆之国様
グローイングアップ、ありましたね~
アメリカングラフィティの後はパロディというかパクリが幾つかでましたね。ポルノ版さえあったようです。
あの時代は東京近郊が凄まじい勢いで開発された頃で、電車も新旧入り乱れて年々激しくなる通勤ラッシュをこなしてた頃ですよね。
by Cedar (2013-08-21 13:33)
1962年
仕込みもまだの時代です(笑
この世に現れたのは1964年最後の月からでございます!
by FTドルフィン (2013-08-21 21:10)
■FTドルフィン様
おお~オリンピックイヤーのお生まれでいらっしゃる!
オリンピックの前と後とではいろんなものが変わりましたね。
by Cedar (2013-08-21 21:18)
目が疲れるリスト、夜中の通信販売のコンピレーションアルバムの曲目みたいですね。
ビートルズの侵略を受ける直前とも言えます。ま、ビートルズもバディ・ホリーに影響を受けてますけれど。
そして、キューバ危機があって翌年JFKが暗殺されて怪しくなってゆくのですが。
by なにわ (2013-08-21 21:23)
■なにわ様
>通信販売のコンピレーションアルバムの曲目みたい
あれ自体が、この映画の選曲をパクってますから・・・実際に作ってる人から聞いた話です。
>ビートルズの侵略を受ける直前
1963~64あたりでアメリカのヒットチャートが劇的にかわってしまいます。
アメリカ→イギリスに盛大に持ってかれますが、ビートルズもDOO WOPやR&Bナンバーをレパートリーにしてます・・
マーヴェレッツのPlease Mr. Postmanとか。
~って鉄ブログらしからぬコメの応酬ですね。
★ぼんさん様
★やまびこ3様
nice!ありがとうございます
by Cedar (2013-08-22 10:14)
曲のリストを見ますと、オールデイズナンバーが目白押しですね。どこかのビアガーデンへ行けはバンドが生演奏しているかもしれません。
RB、モータウン、ポップス、ジャズは黒人と白人が相互に影響し合ってブラッシュアップしてきたのではないでしょうか。1963年のヒット曲「I will follow him」(歌:Little Peggy March)は後年、映画「天使にラブ•ソングを」の中でエキサイティングに歌われました。
1962年のインターアーバン系の記憶は少なく、京阪本線の地上時代の天満橋駅、豊野駅、八幡町駅、奈良電京都駅あたりのシーンが甦ります。
ロスの正面丸窓電車は、大きく凹んだ貫通扉の下に収まったデベソのようなヘッドライトがとてもユニークです。
by 京葉帝都 (2013-08-22 12:33)
■京葉帝都様
アメリカの音楽は、ケルトなどのヨーロッパ民謡と黒人のブルースをベースに様々なジャンルで発展しましたね。
1962年は京阪天満橋は地上だったのですね。6線あった私鉄ターミナルは京阪だけでした。
★まいぷるりか様
★SORI様
nice!ありがとうございます
by Cedar (2013-08-23 06:57)
1962年6月生まれです!
by サットン (2013-08-23 19:13)
■サットン様
おお!0歳の夏、生後2カ月の記憶あれば天才~無理ですね。
by Cedar (2013-08-23 19:51)
★ぷっぷく様
nice!ありがとうございます
by Cedar (2013-08-24 08:00)
みなさんご存じかもですがメルズ、いまだにサンフランの街中になんぼでもありまっせ!
しかも店内ではチャックベリーや(爆)!
(リンク貼りました)
1962年夏はこともあろうに阪神尼崎車庫の真裏にあったでっかい病院に、人生未だ一回だけの入院生活。しかも脱腸(爆)。
タマキン腫らせて喫茶店だの3011だの初期ジェットカーだの眺めてました。
見舞いにくる祖父は何を考えたか毎回東京モノレールセットだのロープウェーセットだのを持ってきました。
あの夏さえなければ(核爆)・・・・
by ポルノ版が見たいワン (2013-08-24 08:17)
■ポルノ版が見たいワン様
メルズは現地では入ったことなく、USJのまがい物に行っただけです。
脱腸で尼の病院って、なんか笑えます、最高のロケーションですな。
あの夏が今を作っていますね。
by Cedar (2013-08-24 10:33)