名鉄揖斐線初訪問!(昭和43年夏) [昔鉄写真]
こんにちは、昭和の夏鉄グラフィティのお次は、その時期の具体例(?)をひとつ・・・
(1・2)今回は昭和41年から運行開始した揖斐線⇔岐阜市内の直通急行~
モ510+モ520の晴れ姿に始めて出あった日のお話です=昭和43年夏の或る日のことでした。
母方の親戚を拠点に、名古屋周辺鉄見聞の1日、名鉄新岐阜駅にやってきました。
(3)出迎えてくれたのはなんと都電6000!?~のはずはなく、デザインをコピーしたモ570形~しかし近くに名古屋市電という優れたデザインのお手本があるのに、なんでわざわざ不細工な6000のコピーなんか、と着くなり思ったCedarでありました。(4)
少しがっかりしながら、電車を待っていると~やってきましたお目当てが!
(5)各務原線新岐阜駅への連絡線(兼留置線)から、真新しい赤白塗装を輝かせてモ510が登場(6)
『揖斐』の方向板と小ぶりな急行マークを掲げて、いったん上り線に進入してきました。
当時のダイヤは直通急行は1時間ヘッド、写真の515はCedarお目当ての2連ではなく単行で発車(=というのは間違いだった※、というのは後で分りましたが)。
~クロスシートに座って市内の併用軌道→郊外のローカルムードへと、移り行く車窓を満喫しました。
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当時の名鉄お得意の1+2の転換クロスシートの車内で、これぞまさしくインタアーバン気分!とアメリカに行ったことも無いくせに、1人で盛り上がっていましたねえ。
※運転開始からCedar初訪問の頃は、岐阜市内は2連で走る認可が下りず、続行運転で忠節まで走り、揖斐線内は2連で走る、という運行形態だったのです。新岐阜行きの場合は忠節で切り離して、新岐阜まで続行運転でした。以下はその風景です。
(8・9)上り急行の続行運転~徹明町の交叉点を右折するモ510のすぐ後ろに、続行のモ520が見えています。
分割併合も面倒だし、運転士も2人必要だし~『趣味的には面白いけど、現場は大変だわな』と思ったものです。
加えて更に面倒だったのはモ510+モ520は総括制御でなく、連結運転の時はモ510がMMカットの520を常に引っ張る、という運転方式だったことでした。終点の本揖斐でいきなり入換作業が始まり、乗務員さんに聞いて謎が解けたのでしたが『なんとも面倒なことよ』と思いつつ、そうまでしてこの急行を運転している名鉄サン、アンタはエライ!と心底から思いました。
さすがにこの運転方式は手間が掛かったと見え、Cedar訪問時から程なくモ520の揖斐寄り運転台にHLのマスコンが取り付けられて、軽便のような『電車まわし』は解消されました。
そんなこんなで、揖斐まで往復してすっかり急行の魅力にとり憑かれたCedarは、徹明町の交叉点を曲がっていく姿を撮影しました。
初めにモ510が通過、台車が盛大にはみ出す急カーブっぷりは、日本離れした感じでした。(10)(11)
次の信号のローテーションを待ってモ520が続きます。電車右折時は注意信号になっているのが分りますね~しかしスクーターのオジサン果敢に突っ込んで来てます!
横断の歩行者に注意を促す<ポッポ~>という鳥の声のような警戒音や、車輪がフログを鳴らす音などが『ああ、今いつもと違う街で電車撮ってるなあ!』と感じた記憶が、頭と耳に残っています。
~独りよがりな思い出はさておき、モ510とモ520のお顔をアップでご覧下さい。(12)
いやはや!カッコイイです。先般ご覧に入れた京阪京津線200と同じく正面5枚窓のクラシックですが、あちらは引退寸前、こちらは現役バリバリ、連結運転に備えたぶっといジャンパー線や1度立ち上がったエアホースなどのディティールも痺れます。オデコの赤帯部に入れたローマン書体の№もインタアーバンのフィーリング満点!
(13)モ520も違った味があります。元々は木造車体に鋼板を貼り付けた簡易鋼体化ですから、510の精悍な感じでなく、線の細い感じの面構えですね。
(14=新関)塗装も一般色のまま、古巣美濃町線に残っていた仲間もいました。
直通急行以外の揖斐・谷汲線の電車は緑色の雑多な車両が使われていましたが、当時の主力はこれ、元は瀬戸線生まれのモ760(←モ560)でした。(15・16=黒野)(16)
元琴平急行+元瀬戸電の谷汲線電車、こんな編成が走る姿は大手私鉄というより地方私鉄そのものでした。
当時の名鉄はローカル線区にも積極的な投資をしていて、その目玉が紅白の車体も鮮かにデビューした直通急行でした。電車は古くても、新しい試みにチャレンジしたなんとも素敵な電車でしたね。
その後、何度も訪問した岐阜の名鉄、今は全てが記憶の彼方に走り去ってしまったとは~当時のスピリットは何処に・・?
では45年前の岐阜の夏から、この辺で・・
自分が訪問するようになったのは、平成に入ってからでしたが、この岐阜市内線というのが、自分の鉄道趣味の原点とも言える路線なので、その510+520形急行の姿、大変、興味深く拝見いたしました。
自分が通うようになった頃には、510だけになっていましたが、それでも、510形が市内を行進する姿には驚きを禁じ得ませんでした。
岐阜は、公安委員会や警察が市内電車の撤去を一貫して要求していたそうで...、何とも残念でなりません。
by あるまーき (2013-07-29 07:25)
510の急行良かったですね。なんといっても510の形式番号がGOOD!510には他社にも名車がたくさんいます。
by EF510-230 (2013-07-29 10:22)
■あるまーき様
岐阜市内線が鉄道趣味の原点とは素晴らしいです。
岐阜の電車は行政の無理解と、JRとの戦いに疲弊してしまった会社のやる気喪失で消えていったのでしょう。残念です。
■EF510-230様
名鉄510は『ファイブテン』と呼ばれて、アメリカの電車ファンにも人気がありました。京都N電も保存されていた、オレンジエンパイア博物館で動態保存なんて話も出たとか。
美濃の駅跡に静態保存(いつかは解体)なんかよりいいと思いましたが、実現しなかった。
★あおたけ様
★やまびこ3様
★FTドルフィン様
★hanamura様
nice!ありがとうございます
by Cedar (2013-07-29 15:45)
★suzuran6様
nice!ありがとうございます
by Cedar (2013-07-29 18:37)
88年に徹明町で510の重連を撮ったことがありますが、それは一日一往復の乗り入れだったとか。
当時でも40年ものの古物利用だったのですが、よく使ったものです。
これなら、新岐阜の手前で地下に入れ、柳ヶ瀬か千手堂経由で忠節まで本線を延長してくれてたほうがよかったのに。それなら揖斐線も生き残っていたでしょうに。
閑話休題、EF510-230氏の年齢が見当つきません。Cedarさんと同世代のようですが、最新鋭機をHNにされてますし、まさか、230ってあの電車から取られているんでしょうか。
by なにわ (2013-07-29 19:04)
岐阜の5枚窓電車は良かったですね。
直通急行は拍手ものの施策でしたね。
地元K察がまともな対応をしてくれればこんなことにはならなかったのではないでしょうか?
この電車、ふんわりした乗り心地も好きでした。
by Chitetsu (2013-07-29 19:29)
感激です。
昭和55年に訪問した時のことが蘇ってまいりました。
私が訪問した時には、憧れの紅白塗装ではなく、すべてスカーレット一色になっていましたが、それでもこの線には、とてつもない魅力を感じました。
残念ながら、訪問はただ一度きり。再訪は叶わぬ夢に終わりました。もっと訪問しておかなかった自分自身が情けないですね。
本当に素敵な写真をありがとうございました。
by のり (2013-07-29 20:46)
■なにわ様
岐阜のような地方都市に地下線は勿体無いでしょう、警察に理解があって安全地帯設置や右折車両の軌道内進入禁止を徹底すれば十分だったと思います。
EF510氏の事は知らないことにしておきます。実際最近は会ってないし。
■Chitetsu様
>地元K察がまともな対応をしてくれれば~
なにわ様へのコメントに書いたとおりのことです。電車廃止後に連接バスを導入したりしてる行政のセンスはおかしいと思うのですが、まあ人の町のことなので・・
■のり様
スカーレットになっても十分魅力的でしたね。
最後に導入された連接車も単行車もいい電車でした
★Reirei様
nice!ありがとうございます
by Cedar (2013-07-29 21:22)
★フジトモ様
nice!ありがとうございます
by Cedar (2013-07-29 21:39)
★nexus6様
nice!ありがとうございます
by Cedar (2013-07-30 00:33)
★oomori様
★guayabo様
nice!ありがとうございます
by Cedar (2013-07-30 12:54)
★ひでほ様
nice!ありがとうございます
by Cedar (2013-07-30 21:27)
★arail206様
★素人写真様
nice!ありがとうございます
by Cedar (2013-08-02 23:54)
★ぷっぷく様
nice!ありがとうございます
by Cedar (2013-08-03 23:46)