3月11日に思い出した写真。 [1枚の写真から]
カオス【(ギリシャ)chaos】
ギリシャ人の考えた、宇宙発生以前のすべてが混沌(こんとん)としている状態。混沌。無秩序。ケーオス。 |
こんなのも、<カオス状態>とか言いますよね~
2年前の震災当日、東京の道もこんなだったなあ~と思いつつ、今日は1枚写真です。
見渡す限り連なったバスの群れ!
100台近いバスが数珠繋ぎになって、排気ガスに煙る2車線の道路を埋め尽くしています。
反対車線も大渋滞している気配です。
震災のあの日は、銀座の仕事場から多摩川べりの自宅まで3時間かけ歩いて帰りました、途中の246はT急バスが連なって全く動かずでしたが・・勿論そこではありません。
よく見ると右側通行だし上空に高速は無いし・・・ここはいったい何処??
~って、ビルの看板は漢字だらけだし・・・もうお分かりですよね~
ここは1993年3月のある朝、台湾の首都台北市を東西に貫く幹線道路、忠孝西路です。台北車站(=駅)の前にかかった歩道橋から東の方を見ています。
当時の人口が500万を優に超えていたのに、市内交通はバスのみ、加えて経済発展でクルマも増えて、連日繰り広げられる<交通カオス状態>を脱するために、台北市内には捷運(=地下鉄)ネットワークが建設の真っ最中、忠孝路の下でも工事中でした。 右側にクレーンやらコンクリートミキサーやらが見えていますが、元々片道4車線あった忠孝路が工事のためにいきなり片道2車線に!という大雑把なやり方で、多くのバス路線が集中する台北駅前はこういうことに・・・
さすがに一般車両は乗り入れ禁止でバスとタクシーのみに制限されていたようですが。それでもこんなことになってしまう・・・この時はあまりのスゴイ光景に歩道橋の上で30分見ていましたが、動いた距離はせいぜい300m!
後にアジアの大都市でこれほどの渋滞シーンを見たのはタイのバンコクでしたが、こちらも<カオス>そのものでしたね・・何しろ市内に住んでいるOLがバス通勤する為に朝6時に家を出ないと9時の始業に間に合わないという話でしたから・・・
(バンコクもBTS(高架電車)や地下鉄の開通、経済成長の鈍化などで、絶望的カオス状態からは脱却したようです。)
ソウル、台北、バンコク・・・・アジアの諸都市の<交通カオス>も近代化の過程の通過儀礼だったのでしょうか?
震災から今日で丸2年、あの日の記憶から、こんな写真を引っ張り出してしまいました。
それにしても首都直下形地震がきたら、東京の道はどんなことになってしまうのでしょう・・。
あれから二年、それぞれの想いが交錯する日ですね。
私も徒歩帰宅をした組です。
あの時のカオスの再現がないことを願いたいです。
by Chitetsu (2013-03-11 14:02)
それは18年前の神戸、あれよりひどいでしょう。
あのときは連休明けの早朝でしたから。
東から2本、西から1本しか幹線道路が無い街だったとしても
by なにわ (2013-03-11 14:46)
■Chitetsu様
東京はオリンピック招致より地震被害回避にお金使う方が良いですね~マイナーな意見でしょうが。
■なにわ様
ビルは高いし、人口とクルマは桁違いに多いし…
私が死ぬのとどっちが先か?なんて考えます。
あまり歳とってからでない方が良いです。
★さらまわし様
★ゆうみ様
★あるまーき様
★yakitorimitbier様
★やまびこ3様
nice!ありがとうございます
by Cedar (2013-03-11 17:37)
★UZ様
★SORI様
★FTドルフィン様
★あおたけ様
★hanamura様
nice!ありがとうございます
by Cedar (2013-03-11 22:43)
★いっぷく様
nice!ありがとうございます
by Cedar (2013-03-12 09:41)
★nexus6様
nice!ありがとうございます
by Cedar (2013-03-12 15:36)
★CASCO事業部様
nice!ありがとうございます
by Cedar (2013-03-13 09:38)
★denta60様
★(。・_・。)2k様
nice!ありがとうございます
by Cedar (2013-03-13 20:09)
私もオリンピックより耐震強化だと思います!広告代理店さんは美味しくないでしょうが。
地下鉄工事はこの間まで日本の大都市のあちこちで見られたように思いますが、最近では見ることないですね。
by サットン (2013-03-14 18:48)
■サットン様
少数意見にご賛同ありがとうございます。
地下鉄工事は一時期は都市風景の一つでしたが、都内では東急東横線の渋谷で最後では?
そうだ、明日開業でしたね。
by Cedar (2013-03-15 06:17)
そう言えば、台北市は何故、戦前期に市内電車が敷設されないままになってしまったのでしょうか?
「電力は民生が第一」なばかりに、電車を走らせるに割く余裕なし、との、総督府或いはその他の上級行政機関の判断だったのでしょうか?
まぁ、那覇市では市内電車が民営で建設されたが、バスとの競合に敗れて昭和初期には早くも廃線となっている(県営の軽便鉄道線と違い、戦火によって破壊された結果ではない)例もあるのですが……。
当時の沖縄県では、台湾偏重の国家予算投入に、官吏の間で「我々は植民地以下の扱いか!」との不満が募っていた、とも仄聞致しますので、
内地と外地の均衡を崩す、否、逆転させるような投資を、そう続ける訳にも行かなかったのでしょうが、
製糖軽便鉄道網はあれ程に充実されたと言うのに、昭和20年8月15日まで、台湾では1両の電車も電気機関車も、営業用として実働する事は無かった……。
これは、長い目で見て、やはり、遺憾極まる、数少ない痛恨の失政であったと言えるのではないでしょうか……。
(もっとも、市内電車が敷かれていたとしても、韓半島の場合と同様、戦後の国民政府支配下で、米国かぶれした蒋介石指導部が、「自動車通行の邪魔」と廃止させてしまった可能性も、無いではありませんが……)
by 紅玉国光 (2013-03-20 18:04)
■紅玉国光様
台湾総督府の最大の弱点は電力だったらしいです。一方石炭は台湾北部で産出したので鉄道は長くSLの天下でした。そう言えば台湾北部の炭鉱鉄道には早くから電化された線があったようです。
by Cedar (2013-03-20 21:25)