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追憶の都電32番(その2、向原界隈~大塚あたり) [都電のいる風景]

前回に続き、昭和44年6月都電32番の画像をごらんに入れます・・・・

と言いながらまたも現在の東池袋4丁目の画像からスタート。

 (1)今回の記事のきっかけになった鬼子母神訪問のルートは有楽町線東池袋から都電に乗り換えたところから始まりました。東池袋8800 のコピー.jpg東池袋4丁目01R.jpg (2)昭和44年の東池袋4丁目。(1)と同じく大塚・王子方面の電車を撮っています。首都高はまだ工事中、現在のグリーン大通りには、池袋駅へ向かう17番(臨時20番も時々走っていました)の線路が走っていました。右が池袋駅方向です。

東池袋~向原~大塚駅間は庶民的な住宅地を縫って走る区間です。この辺のムードは今もあまり変わりませんね。

向原電停近の商店街の踏切(3・4)と、少し走って電停手前のカーブ(5・6)です。長く続いてきた住民の暮らしと電車が自然に共存しているこの感じが、やはりいいですね。向原02R.jpg向原02’R.jpg向原04R.jpg向原03R.jpg 今では安全第一ということで線路通行は禁止でしょうが、この頃は都電の専用軌道は付近の人の生活道路でした。~なんて小難しいことではなく、自然にそうなっていましたね。

(7)向原01R.jpg 向原では春日通りと交差します。この2枚にも線路の周りに様々な人が写り込んでいます、路地から顔を出して電車を見ている子供の姿や・・・向原05R.jpg (8)電車が通り過ぎた後は線路でキャッチボール!している姿も・・・ 人の暮らしに近いところにある電車・・・この感じが現代の荒川線にも残っているのは、ちょっとうれしい気がします。

結局は長い間人々が営んできた暮らしが、行政や資本といった外圧によって無理に変えられていない、ということでしょうか。(な~んて、ついつい文句癖が出そうですね)

(9・10)向原を出て、春日通りを越えると、下り勾配&くねくねと曲がりくねった線路が大塚駅前まで続きます向原~大塚01R.jpg向原~大塚02R.jpg 遠くに山手線大塚駅が見えています。停車しているのはウグイス色の103系ですね。

父によれば戦前のこの区間は両側に家が建て込んで、電車はホイッスルを鳴らしっぱなしで、くねくねと見通しの悪いこの区間を走り抜けたそうです。戦後の区画整理が中途半端なカタチで終わっていた状態だったのでしょうか?

(11)大塚駅~向原03 のコピーR.jpg

(12)坂を下りた電車は急カーブでクランク上に曲がって大塚駅前(実際は山手線の真下なのは皆さんご存知の通りです)に向かいます。最後の区間は戦前の面影が残って、両側に家並みが迫る急カーブでした。道が無い代わりに、軌道の中が踏み均されているのがはっきりと分ります。(この辺りも今は両側の家がすっかり取り払われていますね・・・)大塚駅~向原03R.jpg 左に見える建物はパチンコ店で、寛大なオジサンは高校生でも入れてくれました。一方画面外右には、よく行った映画館がありまして、試験の後など鬼子母神から都電に乗り、頭使わないスカッとする映画=「不良番長シリーズ」とかを見たものでした。運良く(!)セクシー系の映画が上映されていると、モギリがオジサンであることを確認して(オバサンだと、未成年は絶対入れてくれなかった!)勇んで突撃したものでした。

などど、青春の思い出が詰まった大塚界隈で、昭和44年初夏都電32番のお話も、そろそろ終了です。


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コメント 15

nexus6

以前も似た様なコメントをしたかと思うのですが、こういった感じで電車だけでなく、ヒトや建物やクルマも一緒に写し込む とい構図がステキですね。
長時間見入ってしまいます。
by nexus6 (2011-07-05 05:22) 

hanamura

nexus6さんに同意!看板の一つ一つ読んでしまっている自分に気づきました。う~ん!朝はこの辺で…。
by hanamura (2011-07-05 05:46) 

katsu

素晴らしい都電風景ですね。
さすがいつものCedarさんらしい撮り方で素晴らしいです。
写し込まれている当時の人々や建物がありのままで良いですね。
最近、都電の本は沢山ありますが、こういう楽しい都電の画像は少ないようです。




by katsu (2011-07-05 09:58) 

maipenrai

いやぁ参りました!
 昭和44年といえば、まだ高校生でいらした頃でしょう。「この風景を走る都電が好きだっ!」という強い意志が写真からびんびんと伝わってきます。我が身を振り返ると…高校時代は…う~ん、ずっとミーハーだったなぁ…。自分なら例えば下から三枚目の写真など、望遠使ってもっと山手線を引きつけて、なんて絶対やっちゃってる。そうすることで、架線柱の脇に放置されたクルマや、踏切で電車の通過を待つアベックや、おばあちゃんに手を引かれる子供や…そんなものを切り捨てちゃう(見えてるものが見えてない)。そんな理屈はともかく、心にしみる写真です。願わくば(ブログじゃ無理だけど)大きな画像でルーペ片手に隅々まで見たいな、と思いました。
by maipenrai (2011-07-05 12:08) 

む〜さん

くねくねのカーブ、ゴッチャゴチャの沿線の家屋、線路を歩く人たち・・・・昭和40年代は、こんな風景が広がっておりましたね。早稲田~大塚あたり、いい場所が山ほどあったし、昭和47年から数年間は、日の出町に近いところに勤務して居ましたが、撮影行はただの一回。もう、何やってたんでしょうね、私は。
拝見していた、懐かしさに涙でありました。

これは、昭和40年の、水神森~南砂町あたりの風景ですが、4年経ってもあんまり感じが違っていませんね。近年のように駆け足の変革が無かったんでしょう。
http://11.pro.tok2.com/~mu3rail/link168-2.html

あの当時、お金も無かったし、娯楽の選択肢も少なく、たいしたものも食べてなかったのですが、今よりものんびりと暮らせた気がします。
こんなことを書くのは、老人の愚痴でしょうか・・・・書いているうちに、フランス映画『夜毎の美女』に、『何度も登場する昔を懐かしむ老人』が居たのを思い出しました。
(すみません!URL記入を忘れたので、削除の上、書き直しました)
by む〜さん (2011-07-05 15:16) 

Tosi

アンリ・カルティエ=ブレッソンの写真はすぐれて記録的、あるいはフォトジャーナリズム的なものでありながら、「諸事物における言い間違い」のようなものを見逃さず、切り取られた一瞬の中に「歴史の無意識」を定着させるという点で、シュルレアリスムと密接に関連付けられます。1969年6月(玉電廃止の直後なのですね)の都電32番のこれらの貴重な画像にも、そのような意味でシュルレアリスム的なものを感じます。そういえば都電についての以前のエントリーではつげ義春氏の作品をとりあげておられましたね。ベンヤミンが「シュルレアリストたちは(古い鉄道施設をふくむ)時代遅れのオブジェが隠し持つ強力なアトモスフェールの火薬を爆発させることを完璧に知っている」というようなことを書いていたことも思い出しました。むーさん様が言及されている、十九世紀からフランス革命期を経てついには原始時代にまで遡ってしまう喜劇映画の作者ルネ・クレールと同様に、カルティエ=ブレッソンも若いころにはシュルレアリスム運動に参加していたのでした。
by Tosi (2011-07-05 22:32) 

Cedar

■nexus6様
単に、都電の車両そのものには魅力を感じてなかったのかも知れません。
路面電車は人や町の中にいるのが魅力である、とは思っていましたが・・
■hanamura様
実は自分でも同じです(笑)。看板の文字や、業種が今では見られないものも多いですから。スキャンしながら見入ってしまう。大掃除の時に古い雑誌を読みふけってしまうようなものですね。
■Katsu様
いやいやそんな大層な・・・自分の写真はいたって成り行き任せでして(3・4)(5・6)の関係でお分かりのように、本当にやりたいフレーミングには至っていないのです。ただ、映画的な画像が好きなので、手前から奥に向かって人やモノがならんでいる構図は多くなっています。<なめ>の構図ですね。
■maipenrai様
過分なお言葉、くすぐったい・・実はわたしは鉄仲間からはフレーミングが甘い、と批判されてました。
それでもいわゆる車両写真には元から興味が無かったので、当時の車両至上主義鉄写真(なんてものがあったかどうか?)には心が動きませんでしたね。~って言うよりシャイでものぐさ、なんです。
■む~さん様
東池袋4丁目を日の出町という人も減ったでしょうね~あそこには17番の留置線があって、大塚車庫の出張所という扱いでしたね。
昭和も40年代までは時間がゆっくり流れていたと思います。環境問題を考えると昭和47年くらいの暮らしに戻るのが良いらしいです。
「夜毎の美女」~TV名画座で観たなあ・・
■Tosi様
フランスのシュールレアリズムは広い芸術領域に広がっていましたね。写真や映画といったものもそこには含まれますが、やはり当時最新の「文明の利器」を使って今までの芸術には表現できなかったものを描きたかったのでしょう。
そういえば、この時代はサルトルですら現役だし、ゴダールの映画を都電に乗って観に行ったものです。学生運動とアートも密接に絡まっていました。
by Cedar (2011-07-05 23:32) 

Cedar

★gardenwalker様
★nd502様
★denta60様
★ドラもん様
★紺屋様
nice!ありがとうございます

by Cedar (2011-07-05 23:35) 

教祖

この時代のペッチャンコな軌道見てると萌えますね〜

一般の鉄道で30キロレールの10M単尺も随分なくなりましたね。
30年位前までは結構全国にあったんですけどね〜

タタタン、タタタンと忙しいジョイント音は青春そのものです。
by 教祖 (2011-07-06 03:38) 

Cedar

■教祖様
そうでした、この頃の32番の線路も、30kレールの区間が多かったです。
ジョイント音もぺチャンペチャンと聞こえました、見た目のとおりでした(笑)。

今の立派な軌道を見ていると、過剰投資では?と思ったりします(笑)。


by Cedar (2011-07-06 07:35) 

FTドルフィン

僕がはじめて訪れた頃(昭和50年頃)は
まだ、この御写真のような雰囲気がありました。

東京の人の下駄だった都電
電車道は人も共有する、まさしく “道” だったのですね。

by FTドルフィン (2011-07-06 21:15) 

Tosi

これらの画像がなぜシュルレアリスム的であるかということをあまり上手にお伝えすることができなかったのですが、単純に言って、当時の都電32番を知らない者にとっては(「都電の専用軌道は付近の人の生活道路でした」というご説明があってもなお)遊んでいる子供たち、日傘の女性や洗濯物の下を通行する男性と、走行する電車とが専用軌道上で交錯する情景は、「思いがけない出会い(rencontre fortuite)」としかいいようのないほど異様で衝撃的な力を帯びているようにみえてしまう、ということなのだと思います。線路際に乱雑に置かれた資材や廃材のあいだに駐車され、「放置」されているようにもみえてしまう自動車、線路内に散り敷かれた多くのごみや砕片、架線柱に取り付けられた旅館や質屋の看板等も、全体として夢の中の光景のような雰囲気を醸し出しています。ところで、路面電車に関心をもっていたシュルレアリストといえば、ベルギーの画家ポール・デルヴォーがおりますね。鉄道模型愛好家でもあったようです。
http://www.google.com/search?hl=fr&biw=1086&bih=909&q=paul%20delvaux%20tram&um=1&ie=UTF-8&tbm=isch&source=og&sa=N&tab=wi
by Tosi (2011-07-06 21:51) 

Cedar

■FTドルフィン様
市内交通は線というより面であったから便利だったのではないでしょうか?
(地下鉄は面にはなりえない)、だから人々も気軽に道として扱う~ってのはこじつけですね(笑)
■Tosi様
シュルレアリズムについてあまり難しいことは分りませんが、ポール・デルヴォーは好きな画家でして、日本での展覧会にも足を運びました。
夢のような景色に見えるとしたら、光栄ですね。
by Cedar (2011-07-07 22:57) 

Cedar

★とる子様
nice!ありがとうございます
by Cedar (2011-07-08 00:07) 

Cedar

★しまりす様
nice!ありがとうございます
by Cedar (2011-07-10 23:48) 

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