連接車だがや!(名古屋市電昭和43年・その1) [昔鉄スナップ]
昭和43年の名古屋市電(その1)
名古屋市電の名物だったものに、連接車がありました。戦前~戦後に、あわせて3形式が製造され、ワンマン化が進むまで活躍していました。
或る朝、親子3人で宿泊していたホテルの近く=今の桜通大津辺りから、市電に乗って名古屋駅前に向かったときに撮った、連接車の画像をごらんください。
(1)まずは名古屋最初の連接車2600形。車庫のあった浄心行きです。1400形ゆずりの窓の大きい名古屋スタイルですが、それよりも海坊主風のオデコが目立ちます。
路面電車の連接車といえば、西鉄や広島というあたりが思い出されますが、名古屋市電は戦前から連接車で有名で、昭和43年には、朝夕のラッシュに大いに活躍していました。
(2)整備・改良工事中の名駅付近(名駅、という言い方もその頃聞いて、へ~と思いましたが、名駅は今や立派な住所なんですね。この頃はどうだったのか?) 電車のバックに見えている名鉄百貨店のビルは、今も変わっていないでしょうか?駅前のランドマークだった<大名古屋ビルチ゛ング>も消えるとか・・・
(2)この時は朝のラッシュの時間だったのか、2編成の2600形が立て続けにやってきました。実際の順番はこちらの2605に続いて(1)の2603とすれ違ったということです。サイドを見ると連接面の床が高くなっています→つまり連接車なのに、動力は高床車用の連接台車の2個モーター。さすがケチケチ都市(失礼!)名古屋ですね。「東京のような坂の多い街ではないで、OKだがや」~でも勾配の多い東山方面~覚王山には行けなかったらしいです・・・
電車のバックには懐かしい旧名古屋駅が見えています。市バスの色も今とは違いますね。
(3)こちらは戦後製の3000形です、連接部の台車も低床式となり、オデコも海坊主から脱脚した正調名古屋スタイルで、まとまったスタイルになりました。 4つの扉全てから、お客さんが乗り込んで、さすが連接車の収容力は凄い!といいたいのですが、乗務員は何人必要だったのかが気になります。こちらの撮影場所は全く記憶にありません。
この他、2600型の海坊主スタイルでなく、ぐるっと雨樋がついた2700形もありました。彼らが満員の乗客を乗せて、広い道路のまんなかをゆるゆる(~颯爽と言うのには、出力不足です!)走って行くのは印象的でした。
最近の超低床連接方式のLRVの隆盛を、先駆者だった彼らはどう思うのでしょう。
物資が乏しくて2個モーターになったのでしょうか。
おでこがほんとにかわいい事。
by manamana (2010-11-26 22:21)
■manamana様
このおでこは目立っていました。車体の大きさとあいまって鯨のようでしたね。大きな車体に2個モーターは、確かに戦争の影響かも知れません。
by Cedar (2010-11-27 00:15)
★やまびこ3様
nice!ありがとうございます。
by Cedar (2010-11-27 00:16)
名古屋の連接車、乗った記憶が全く有りません。
(ケチだから歩いてたのか..笑)
今は無き、藤が丘工場展示場の保存車を見た位で。
http://987.blog.so-net.ne.jp/2008-02-14
名古屋市電、残しておけば有効な交通手段だったのに(場所に寄っては)
しかしCedarさん、あちこち行かれてますねぇ。
by gop (2010-11-27 05:40)
■gop様
市電最終の画像、葬式鉄嫌いの私もじ~んときてしまいました。
藤が丘の展示場は行こうと思っているうちになくなってしまいました。世界一の規模だったのにマトモな電車保存施設も無い都民としては羨ましい存在だったのに・・・
>しかしCedarさん、あちこち行かれてますねぇ。
単に女子にもてなかったので暇だったからです(笑)・・・その当時は蛇蝎の如く嫌われる鉄道ファンでしたから。
by Cedar (2010-11-27 12:13)
こんちわぁ〜。
2個モーター!? そりゃムチャでしょ!
収容力も車体重量も1.5倍はありそうなのに。
で、見たところドアを入口専用/出口専用に別けてないってコトは乗務員は4人?
モーターをケチって経済的に作って、人件費では結果的に不経済な電車ですねぇ。
by Junior (2010-11-27 12:29)
2600形って皇紀2600年になぞらえたんでしたっけ?そんな記憶がありますが、間違ってるかもしれません。あれは、近鉄の付随車だったかしら・・・・。
連接車は昭和34年に納屋橋でお目にかかったっきりで、乗った事はありません。2700でしたが、なかなかカッコいいなと思ったものです。
出入り口が多いと乗務員数とか大変ですね。信用乗車方式が根付けば、広島の5車体車なんか便利につかえるのになあと、いつも思うのです。
昭和34年の名古屋市電、2700や、他形式がこちらにあります。
http://11.pro.tok2.com/~mu3rail/link137b.html
by む〜さん (2010-11-27 13:19)
独特のスタイルですね。名古屋も然りですが、大都市での路面電車、何とか生き残る術はなかったのでしょうか。現在、もしご存命であれば、都市交通はきっと変わっていたと思います。電車ファンの独りよがりでしょうか・・・。
by のり (2010-11-27 20:25)
■Junior様
でも、連接は3形式とも2個モーターだったようです。東京や大阪みたいに市内に私鉄や国鉄のネットワークが無かったので、工場地帯への輸送が緊急課題だったとか・・・阪国の連結運転も戦時輸送対策でしたよね。
■む~さん様
形式の由来はおっしゃる通りだったようです。軍国日本のプロパガンダとしては絶好の機会だったのでしょうね。それは別として、グッドデザインだった名古屋の連接車、2700も超満員で前後が下がってしまって走る姿を見た事があります。
■のり様
名古屋は道も広くて、全廃しなくていいのではという意見は有ったらしいです。でも昭和40年代後半は日本挙げてクルマ社会へまっしぐらだったですから、T自動車のお膝元では、路面電車は完全にスポイルされたのでしょう。
今も昔も世相&アメリカに流される日本国ですから・・
by Cedar (2010-11-27 20:39)
こんばんは
訪問遅くなって申し訳ありません・・・
連節車、福岡にも走っていました。が、昭和50年の1次廃止のときになくなってしまいました。
一部の電車が広島や熊本、そして筑豊電鉄に転属し、これらの場所で乗る機会がありました。
by umi37- (2010-11-29 23:40)
■umi37-様
西鉄軌道線といえば連接車でしたね。北九州線での活躍は今も印象に残っていますが、福岡の写真は残念ながら撮っていません。路面用の連接車は日本では名古屋のものが最初のようです。
by Cedar (2010-12-01 08:16)
私の実家の近くの路線(栄町~金山橋)では、3000型が走行していましたので、幼少時に乗った記憶があります。
日曜日に、親に連れられ栄町に行き来する際に乗りました。
日曜日は昼間の時間帯も乗客が多いため、運行されていたと思います。
by 松桐坊主 (2015-06-01 00:59)