昭和42年、再び福島交通(その3・沿線篇①=農村地帯の中心駅) [昔鉄スナップ]
今回も昭和42年11月に、父が撮影した福島交通のディティール画像、3回目です。
田舎の町の駅めぐり
保原まずは農産物の集散地だった保原、町の中心に軌道線の駅があり、いつも賑わっていました。
(1)大きな風呂敷包みを持った人、おかっぱ頭の女の子、そして福島行き1103が到着、背後の商店や街路も多くの人で賑わっていて、なかなかの活気です。
(2・3)保原駅の全景。駅舎の両側に線路があり、左には貨物側線もありました。ここは梁川・掛田方面の分岐駅でもあり、上下電車が接続・交換していました。左に梁川行きが発車待ち、右奥には掛田発が福島に向かって出発していきます。 そのまま模型化したくなるような佇まい。屋根の駅名電飾サインや福島交通の看板、妻面に〔保原映画番組案内〕が掲げられているのが、いかにも町の中心という感じです。~
(4)梁川行きの電車が出発、地元商店の看板群の下に立っているのはポイントの転換係です。・・・「森よし子」「マルホウ」「志んのや」~一体どんなお店なのでしょう?
(5)ここが掛田・梁川方面の分岐点です、(3)のポイントから約20mの地点。右に曲がっていく掛田行きの線路は街角ぎりぎり!ですね。貨車を引いた電車がここを曲がっていくのを見たかった・・・電車がいるところを撮ってないのは、父には珍しいです。 それにしても、町に人が多いですねえ、いまはどうなのでしょう?いずこも同じシャッター通りと化しているのでしょうか?
(6・7)保原の分岐点で、掛田方向から梁川行きの線路を見ています。線路を跨ぐ保原商工会の立派なアーチ、こういうのは当時の地方都市によく見られたものです。 アーチの向こうが保原の繁華街(?)なのでしょうか?それにしても、お酒からメリヤス、家具や、肉やさんまで、実に様々な業種が広告を出していますね。
カステーラ、CALTEX、そして線路のある町角の風景・・・
保原で別れた先のふたつの終点にも、父は足を伸ばしました。団体旅行のはずですが、随分時間を費やしていますねえ。
梁川いまは阿武隈急行の駅がある梁川
そこそこの町だったようで、駅も立派です。
(8・9)ニンゲンのシェルターというより通勤・通学者のバイクや自転車置き場と化しています。パーク&ライドはこの頃すでに行われていたということですかね? 電車とリヤカーの並び、貨車を入換える機回し線(電車だから電回し?)もあります。ちいさな手荷物なら電車でも運んだのかもしれません。
掛田もう一方の終点は、ほんとに田舎だったようですね・・・
(10・11)農家の庭先に軌道線の駅がある、そんな感じに見えてきます。農業倉庫は正に農家の納屋そのものです。
ナンバーが欠けてしまったのかと思っていましたが、拡大すると1112の最後の数字が泥に覆われていました。
(12) (13) 終着駅のすぐ脇で、こんな農村風景が展開していたなんて・・・
日本的であり、ミレーの絵画のようでもある。
電車が走っているのが不思議な気さえする、そんな情景です。
ある友人が「廃線跡探訪したら面白そう」と言いましたが、こののどかな雰囲気は微塵も残っていないかと思うと、その気になれないでいるのです(きっとがっかりしてしまうに違いない・・・)。
福島交通ディティール篇・次回は運転室展望画像です。
またまたすごい写真ばかり。戦後昭和の地方の商業圏を今に記す貴重な資料だと思います。保原商工会のアーチは夜になるといかなる電飾に彩られるのでしょうか? 繁華街のうらぶれ具合との対比が興味深く、優しい妖怪が出そうな雰囲気がありますね。そのアーチ下に停まる中型トラックは三菱ジュピターという車種。その左、割烹着のご婦人の後ろのクルマはひょっとしてトヨペットクラウンの珍車、ピックアップトラックかも。かつて近所の建具屋サンが乗っていたクルマで、現存するなら世田谷ベース辺りに停めておきたいクルマです。保原駅前の映画ポスターはいかにもな並びですね。左端の一枚は若大将シリーズのどれかですね。福島駅前のスナップにもありましたが、ここにも「ツタヤ」があって笑ってしまいます。
by 猫ムササビ (2010-11-20 16:52)
こんばんは
現代の車社会が来る前の風景ですね~
軽便鉄道や路面電車が庶民の足だったんですね
by gardenwalker (2010-11-20 19:50)
たかだか40数年前の日本にこんな風景があったなんて、とても信じられませんね。現在の田舎町に車は多くても、人の姿がないことを考えると、通行人の多さを見るだけでその町の活気を感じます。きっと昼間も、アーチ型の電飾に火が入ってからも人の行き来は多かったのでしょう。猫むささびさん、ひょっとするとアーチ型の電飾の中に「生目あります」なんて広告があるかもしれませんよ。
by Soda (2010-11-20 22:51)
こんばんは。
(12)の写真を見ると、スタンダード・ゲージ?と勘違いしちゃいますね。
トロリーと言うより、ナローの雰囲気そのままが残ってたんですね。
保原商工会のアーチ、電照広告なんですね。でも、右上の空きスペース2枚が蛍光灯むき出しだけど、大丈夫なのかな?
by Junior (2010-11-21 00:57)
街を歩いていた人達は、
自動車という名前のカプセルに入って、
無料カプセル置き場のある郊外へ吸い込まれていきます。
カプセルからあぶれた人だけが、
そう、高校生、お年寄り、旅人たちです、
駅前を辛うじて歩いています・・・
by manamana (2010-11-21 05:33)
小生が昭和36年に訪れた時は伊達橋付近までしか行きませんでした。
お父様のこの写真を拝見しますと行かなかったのが惜しまれます。
多分、保原から先は60分ヘッドだったと思いますので行きにくかったようです。
このような写真は地元にも残っていないのではないかと思います。
貴重な写真と思います。
by はーさん (2010-11-21 09:58)
■猫ムササビ様
ウチの父は電車好きだったのですが、街写真はあまり撮っていないのです。にもかかわらずこの時はこういう写真が多い。やはり強烈な印象だったのでしょう。
■gardenwalker様
昭和40年代は、国家政策的にクルマ社会に持っていった時期でした。クルマ企業を太らせるため、土木工事業者も儲けさせるため・・・その流れの中ではこんな電車は、ひとたまりも無かったですね
■Soda様
昔が全ていいとは思いませんが、地方の活気の無さはモンダイですね。この写真を見ると人が元気なのが目に付きます
■Junior様
軌条がトロッコなみの細さなのと、そもそも車体が小さいのでスタンダードゲージのように見えてしまうのでしょうか?掛田の駅には、信達軌道野時代の石碑(?)が建っていてナロー時代を伝えていました。
■manamana様
交通弱者がカプセルに無縁な人たちですね。アメリカみたいになってきてしまいましたね。
■はーさん様
ありがとうございます。地元でも電車の存在を知る人はすくなくなっているようです。伊達橋は今も遺構として残っているようですね。
by Cedar (2010-11-21 21:29)
こんばんは。
本当に貴重な記録ですね。
母方の祖母がこのあたりで教員をしていましたので、母にプリントして見せてやりたいと思いました。
by やまびこ3 (2010-11-22 20:54)
■やまびこ3様
是非お母さまに見ていただきたいです。
当時の先生は今と違って毅然とされていたのでしょうね。
by Cedar (2010-11-23 00:51)
はじめまして、写真の初代保原駅のすぐ側に住んでおります。
懐かしい写真が見れて、とても嬉しいです。
ありがとう。
by 味噌親父 (2014-03-24 15:53)
■味噌親父様
ようこそお越し下さいました!
保原の町も随分変わったことでしょうね。
思い出の縁になれたなら、光栄です。
by Cedar (2014-03-24 22:23)
はじめまして、ブログ拝見させていただきました。
保原町に在住してるものです。
突然ですがここ最近、保原町のロータリークラブがこのチンチン電車の修復保存プロジェクトを立ち上げたそうで(題目は「よみがえれチンチン電車1116号」だそうです。)この七月あたりから修復を始めるそうです。
そんな話題を耳にして、古い街並みの写真はないかなと探していたところにこのブログに遭遇しました。
古き良き街並みが垣間見れてよかったです。
貴重な写真ありがとうございました。またおじゃまします。
by バラ (2014-06-12 18:24)
■バラ 様
コメントいただいていたのに返信遅れまして申しわけありません。
福島交通を訪ねてもう半世紀近い時間が流れてしまいました。
ロータリークラブの皆さまの修復作業のご成功をお祈りいたします。
今後ともよろしくお願い申し下げます。
by Cedar (2014-06-13 13:25)