ヴィ「ネガ」~救済報告(昭和45年3月3日・4日) [昔の今日のスナップ]
予告編に続き、電車やCedarが撮った九州ポッポ写真をご覧いただきます。
まずは47年前の昨日3日(1↑)と今日4日(2↓)のお写真をば~
初日2日はいきなりのOBで、独り西鉄北九州線に行ってしまったので
SLならぬお電車写真がいきなり出ます。
(3)
東京からの夜行急行で九州上陸したとたん、あちこちで並走する姿に矢も盾もたまらず、他のご一行様は筑豊本線でSL撮ってる最中にこんな写真撮ってました。
でも夜はイワキ君はじめお仲間と合流したんですが、
さて何処に泊まったかは憶えてないんです。
3月3日は筑豊本線の末端区間、冷水峠越えの区間でポッポ写真撮りました。
(4)
予告編でも見ていただいたこのショット、機関車はC55なんだそうで~
そんなことも知らないドシロートでした。
ここに行った目的だったのはこのD60~
(5)
でも、こんな情けない姿しか撮れてないんです・・・
ホントはもう少し撮ったはずですが、なぜか6コマ分ネガが見つからない・・・
ま、どうせ大した写真じゃないのですが、この時はちょっと天気が悪くなってきて保線小屋(って言っても今の若いファンにはわからないでしょうね)で雨宿りしました。
(参考写真=こういうのが線路脇にあったんです。)
汚い小屋のなかで雨露しのいでると、当時共産ゲリラとして名をはせた「パテトラオ」(ラオス解放戦線)みたいな気分だと誰かが言い出しまして、「俺たちパテトヤマエだ~」などと言ってみたりして・・・
時まさに学生運動真っ盛り、われら大学0年生(ちょうど高校と大学の狭間の春休み)はほぼノンポリとは言え、そんなギャグ(!)も出たんでした。
あ、ノンポリって言葉も知らないか・・・・
(6)
次いでやってきたのはキハ82系特急「かもめ」山陽線を12両で走ってきて、九州内で鹿児島本線経由と筑豊本線経由に分かれるという芸の細かい運転をしていたのも当時の国鉄ならではですね。(7)
そんなことしてるうちに、来るとき乗ってきた列車が西鉄大牟田線をオーバークロスしたのを見たCedarは、にわかにカテナリーロスシンドロームの禁断症状がでてしまい、前日に続いてエスケープ。
筑前山家から小雨の線路沿いをテクテク歩いて西鉄のお電車に会いに行ってしまったのでした。
その時の西鉄大牟田線→
開けて3月4日です。前夜の門司港発夜行鈍行(なんてのが当時は走っていたんです)佐世保行きから乗り換えてやってきた松浦線、玄界灘を望んで走る肥前御厨~松浦間で撮影・・・
(9・10)なんだかどうやって絵にするのか戸惑ってる感じが見えますね(恥)・・・。
(11)
あとはついついこういうロングに逃げちゃう~
絶景のなかを行くのは急行「平戸」ですかね?
(12)カラス色の列車ばかりの中に急行色のDCは目立ちます。
(13)当時はDCより客レのほうが多かったくらいで、混合列車までやってきました。
(14)なのにこんな後追い写真しか撮ってないのは情けないです。
機関車が見えてないやんけ~!!
もっと情けないのは次の3コマ~なんとフィルム装填失敗してました。
そのうち2コマを恥を忍んで見せちゃいます。
(15・16)
松浦駅で撮った貨物列車もこの通り~これはハチロクですよね。
危なくこのネガ1本がパーでした。
くわばらクワバラ!
こういう駅頭風景なら、お電車で撮り慣れてるんですが・・
(17・18)
松浦駅のC11客レ交換風景は国鉄というより地方私鉄のような雰囲気でした=そういえば今は3セク私鉄松浦鉄道になっちゃったんですね。
この後はこの客車に揺られて伊万里へ~
(19・20)門デフ(門のようだからそう呼ぶのかと思ってたら、門司鉄道管理局形なんですね)のカタチにもいろいろあるんだと、ネガスキャンしてて気がつきました。
筑肥線のDCに乗り換えて東唐津へ。
(21・22)
当時の線路は今とはずいぶん異なり、東唐津はスイッチバック駅だし筑肥線も地下鉄ではなく国鉄博多駅に乗り入れていました。
(23)東唐津には気動車区があって略号が門ヒカラだった~カナ3文字はここだけだったとか~のが印象的でしたね。
しかしデジカメ時代の今ならともかく、こんなのじゃなく車両全体撮らんかい!
その夜は唐津泊でした。
~ということで47年前の3月3日・4日のヘタレSL写真はこれまで~
でもまだ続きます。
ではまた。
電車屋なんで、本命ではない(3)のカットに反応してしまいます。熊西の分岐点ですね。
by モハメイドペーパー (2017-03-04 12:49)
蒸機ももちろんですが、小屋、かもめ、10系キハ、門ヒカラ(今は九なのでしょうかね?)・・・すべてイイですぅ〜
by 青春M (2017-03-04 12:55)
熊西分岐、今の西黒崎あたりですかね。
直方に泊まられたと推理します。
筑豊本線のご友人一行、筑豊電鉄のCedarさんが直方で夜合流。
翌朝始発に飛び乗ったので、直方の写真がこの時点ではない。
そんなところでは?
by シグ鉄 (2017-03-04 13:31)
冒頭、電車くんとCedarさんが並んでSMの写真を撮ったのかと思った(核爆)!
いやー、やっぱり目が行くのは電車とキハですが、実はSMもいいなあーとドMに隠れて言ってみる。
by SMわんわん (2017-03-04 13:36)
■モハメイドペーパー様
熊西は撮影当時は貞元でしたね。戸畑~黒崎辺りの夜明け、夜行列車の車窓に電車や線路が見えてきて、確か折尾で仲間と別れた記憶があります。折尾終点が煉瓦の高架駅だったのにびっくりしました。
■青春M様
自分的に気になった部分に反応していただきありがたし!
調子に乗ってまたみてもらいますう~(西条凡児)
■シグ鉄様
2日の夜は確かに筑豊直方で終了し、市内を歩いて国鉄直方駅に行った記憶がありますが~宿は直方だったかなぁ?イワキ鯨川君が謎を解いてくれると思います。
■SMわんわん様
当時の低いホームに響く「ドリドリドリ~」というDMH17のアイドリング音は旅の記憶の一部です。
被写体そのものより、そんなことが思い出されるんです。キハ17も82も基本的には同じ動力ってのもすごい話、模型みたいですね。
by Cedar (2017-03-04 14:07)
★ma2ma2様
★hanamura様
nice!ありがとうございます
by Cedar (2017-03-04 14:07)
冷水峠の大築堤など撮影場所を事前に調べるのも楽しかったかと思います。
私はこの区間は原田発の50系客車4連(DD51牽引)で通ったことがありました。
当時、彗星から博多でDCに乗り換えて東唐津駅に着いたのを覚えています。
by 京葉帝都 (2017-03-04 15:01)
「桜島・高千穂」で九州入りをされたのでしょうか?
キハ82好きでした。
王子駅の脇の跨線橋で、「つばさ」をよく見たものです。
by 八犬伝 (2017-03-04 16:32)
■京葉帝都様
それが事前の調べは、ツアコン様にお任せでして・・
筑豊本線と筑肥線の区別もつかない国鉄オンチでした。
■八犬伝様
>「桜島・高千穂」で~
まさしくそれでした!名古屋まではのんびり昼行、関西からはめちゃ混み夜行で約20時間の旅・・今なら翌日は1日死んでますね。
キハ82、当時の九州のクイーンでしたね。
by Cedar (2017-03-04 17:36)
★myossy様
nice!ありがとうございます
by Cedar (2017-03-04 17:37)
「パテトヤマエ」と言ったのは私です。念のため。
良く覚えていませんが、初日はまだ元気があったので、夜行で下って
離合する上りに乗り換えたんじゃなかったかなぁ。学生さんは金が
ないので、そんな芸当も日常茶飯事。今じゃやろうとしても列車そのものがないから出来ませんわな。
このシリーズにはチャチャ入れるつもりなのでよろしくです。
by イワキ鯨川 (2017-03-04 18:15)
■イワキ鯨川様
チャチャ大歓迎!
パテトヤマエって言ったのが貴兄だってのは、当時の政治的スタンス(爆)からして納得ですわ。
そういえば冷水峠を後補機つきの列車で越えた記憶がむわ~っと蘇りました!ってことは夜行で下って鹿児島本線のどこかで離合する上り急行(あれは阿蘇かな?)に乗ったんですね・・・均一周遊券ならそれは可能だしね。
それで西鉄のオーバークロスを通ったわけもわかりました!
ありがとやんした~!
★モボ様
nice!ありがとうございます
by Cedar (2017-03-04 18:42)
■イワキ様へ追伸
しかし夜行3連泊ってすごいです。唐津でとめてもらった豪華旅館が竜宮城に思えましたね。おっとこの話は次回のイントロのつもりでした。
by Cedar (2017-03-04 18:59)
九州にいったのは電化後、旧国改造の事業用車両参りと42型お別れ後に走った団臨を九州鉄の人の車に乗せてもらい撮りまくり、午後あいてるんで筑豊電鉄と山陰のキハ23を撮影にいったくらいで、まったくコメントできないです。宇部線から南福岡行きの普通のったら、すげえ時間かかってくらくらしました。思い出しました。宇部線の旧国の疎開回送のときで8連とかありました。南武支線17Mの2度目の廃車回送とバッティングして、悩み、えいって北鎌倉でさくらの寝台券こうていきました。寝台車けっこう混んでいました。42最期のころは1車両に2人くらいでした。表題内容とぜんぜん異なるレスポンスごめんなさい。最近鉄は思い出だけ。女も。
by ひでほ (2017-03-04 19:46)
こちらも追伸
「白山」っていう鹿児島回りの夜行急行ってなかったっけ。当時は九州内には、鹿児島、日豊、鹿児島~肥薩、そして長崎、佐世保の計4本の夜行があったような、なかったような。当時の時刻表があればイッパツなんだけどね。
by イワキ鯨川 (2017-03-04 20:56)
■ひでほ様
鉄は何とか現役ですが、女はご同様に思い出です。
■イワキ鯨川様
Wikiとかで調べたけど「白山」ってのは無い、「城山」ならありそうですが・・・
追伸に書いた後補機つきの急行は「阿蘇」じゃなくて「天草」でしたね。熊本→京都間の夜行急行ですな。
九州内の夜行は貧乏鉄の定宿でした。
★ゆきち様
★reirei様
nice!ありがとうございます
by Cedar (2017-03-04 21:32)
3枚目、うちの近所です....筑鉄が折尾方面と直方方面に分岐するところですね、いまでは折尾方面の線路はありませんが~、冷水峠の築堤もいいですね。
by SpeedBird (2017-03-04 21:43)
この際だから何でも書く。
そうそう「城山」だわ。そして九州内夜行の「鹿児島~肥薩」と書いたのは、鹿児島~肥薩~吉都回りの都城行だった。少しずつ記憶がよみがえってきますね。
このシリーズ、ブイブイ言わせていただきます。私以外の善良なCedarファンの皆様、申し訳ありませんが、しばらくお付き合い下さいませ。
by イワキ鯨川 (2017-03-04 21:58)
■SpeedBird様
このときが初九州で、その後大学4年間は西鉄にどっぷり嵌りました。
冷水峠に年寄りの冷水で行って見よう、なんて・・・
■イワキ鯨川様
記憶が捩れまくりで、そもそも冷水峠には原田方面から入ったのか、直方方面から入ったのかが怪しい~補機つきの天草は朝の下り列車だし・・・一度原田まで行って折り返したか・・・?思い出したら書き込んでくだされ。
皆様へ、掲示板状態でスミマセン。
★ぷっぷく様
★nd502様
nice!ありがとうございます
by Cedar (2017-03-04 22:51)
冷水は直方から入って、原田へ出た。私のベタ焼きには小雨模様の原田の写真があるよ。この後一旦門司港へ戻って佐世保夜行だね。
あんたは撮っていないと思うが、翌朝Kくんと早朝の佐世保で夜間撮影している。
原っぱでインディアンごっこをしたのは、松浦線の列車待ちの時だ。
唐津の豪華割烹旅館については、またその時に・・・。
by イワキ鯨川 (2017-03-04 23:29)
いよいよ始まりましたね。
電車やChitetsuもついつい本題以外の画像に目が行きますが、門デフのC11なんて有ったんですね!
ぽっぽ音痴なので知りませんでした。
大学0年生の春、最高の時ですね〜。
by Chitetsu (2017-03-05 07:57)
Cedarさま
47年前の我が故郷の鉄道たち、輝いてますねぇ!!
筑豊本線のC55、松前線の変形門デフのC11、それに北九に移った(?)西鉄路面の200などなど。それになんとも懐かしかったのが門ヒカラ。全体を撮らずにここをアップのカメラアイに痺れますよ!
by 狂電関人 (2017-03-05 09:16)
■Chitetsu様
始めちゃいました!
イワキ鯨川君のちゃちゃ入れに助けられ、写真とともに想い出もスキャンしてる気分です。
■狂電関人様
門外漢の自分が見ても、手入れのいいSLたちががんばってましたね。
北九州線に嵌るきっかけも、この時でした。
by Cedar (2017-03-05 10:23)
★nandenkanden様
★コミックン様
★arail206様
★AKI様
★hideta-o様
★はじドラ様
★banpeiyu様
★nd502様
nice!ありがとうございます
by Cedar (2017-03-05 10:25)
私が九州に初めて足を踏み入れたのは、昭和も終わりに近くなっていた頃なので、国鉄からJRに変わり、幹線の電化や赤字路線の整理などで、この写真に出ている頃のとは全く様相が違っていたのですが、この写真の頃より少し前から鉄道F誌などで九州北部の鉄道風景のことは知識として手に入っていて、「門鉄デフ」という独特のSLの装備のことも知ったのでした。
特急「かもめ」の不思議な運用。長崎行きと佐世保行きに分かれていたのですが、分岐点の肥前山口ではなく、はるか手前の小倉で博多廻りと筑豊線廻りに分割され、筑豊廻りのほうが距離は短いにもかかわらず急坂が多かったり単線区間があったりして時間がかかったので、再び合流してからどちらも最初に、そして唯一両方とも停まる佐賀駅(鳥栖も肥前山口も通過!)では、筑豊廻りは博多廻りに結局追いつけず、同じ列車なのに発着時間が違う、という妙なことが起きていたのでした(上りはその逆)。大都会の博多を無視しても筑豊廻りの特急があったというのは、その頃はまだまだ筑豊の炭鉱も盛んに石炭が掘られていて、人のほうもそれなりの需要があったからなのでしょうか。この「かもめ」の運用がなくなった後、夜行列車「天草・雲仙」(?)が同じような運用をしていた記憶がありますが、こちらは下り列車が九州に入るのが早朝(上りは深夜に出る)だったので、こちらのほうは時間調整の意味もあったのかもしれませんが。
唐津・西唐津と旧・東唐津とは、川を挟んで相対しており、旧線の頃には選択乗車制度があったそうです。松浦線~松浦鉄道は未乗車ですが、17年ほど前、勤め先の慰安旅行で伊万里~平戸~ハウステンボスと回ったことがあり、そのときに松浦鉄道の単行DCに2度ほど出会っています。
「桜島(当時は「霧島」だったかな?)・高千穂」には、小学生時代に親父の田舎・伊豆からの帰り、当時入手困難だった伊豆方面からの急行電車の指定席券が取れず、熱海から東京駅(品川?)まで、旧式客車に揺られた記憶がありました。
by 伊豆之国 (2017-03-05 14:16)
★ネオ・アッキー様
★シュウチャン様
nice!ありがとうございます
by Cedar (2017-03-05 18:40)
見ててすごい楽しい。
こんなSL時代を体験したかったなあ。
by しおつ (2017-03-05 20:30)
■しおつ様
楽しんでいただければ幸いです。
SL時代を体験したという「実感をスキャン」したんですね。
★やまびこ3様
nice!ありがとうございます
by Cedar (2017-03-05 21:42)
★takechan様
nice!ありがとうございます
by Cedar (2017-03-06 10:03)
元気いっぱいの地方路線を感じます。
この頃はまだ、鉄道が移動手段の主流だったんですねえ。
記念列車やイベント列車ではないSLの姿が良いなあ。
どこかにそういう鉄道できないかしら。
by ナツパパ (2017-03-08 09:41)
■ナツパパ様
地方交通線もそれなりに賑わってたこのころとは鉄道の役割が激変していますね。JR各社もイベント列車やクルーズトレインを売り物にする時代になってしまいました。
by Cedar (2017-03-08 15:21)
★FTドルフィン様
nice!ありがとうございます
by Cedar (2017-03-09 08:34)