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昭和45年・春の熊本(その2~北熊本&上熊本) [昔鉄スナップ]

昭和45年熊電風景その2は上熊本への支線が分岐し、車庫もあった北熊本の画像からです。藤崎宮前から元東急の201に揺られて到着すると・・・「しばらく停車しま~す」との車掌さんの大音声が響きました。

s47北熊本混合出発R.jpg(1)なぜかと思ったら、お尻に蓋貨車を連結しました、貨車を引く電車は上田交通や旭川電軌、かの福島交通など何度か見ていますがやはり面白い姿ですね。

菊池方面に発車して行く姿をあわてて後追いで1枚。混合列車~電車だから混合電車ですか

(2)ほどなくしてやってきた上り電車。こちらもトムを1両繋いでました。s48北熊本103+貨車R.jpgこの日は混合電車がやたらに目に付きました~今思えば貨物輸送が活発だったのに、ここは機関車を持ってなかったはずですね。

国鉄との連絡はここから分岐する支線を介して行っていたわけです。藤崎宮前方面には貨車は入っていなかった?(と思っていたら、鉄友人の狂電関人様は藤崎宮前で貨車を撮られたそうで。)

(4)上熊本方面は専らこの電車が使われていました。元広浜鉄道の小形車70形、今のJR西日本可部線の電車です~所謂私鉄買収国電の成れの果てです。s47北熊本71R.jpg構内のホームの無い場所に停車していたのは、貨車の入換(菊池方面との受け渡し)のためだったようです。

当時の熊電は様々な前歴の電車が全国から流れ集って楽しいラインナップでした、中でも上熊本への支線で働くこの電車に、強く惹かれましたね。

(5)s47北熊本71RR.jpg車体長12m、屋根も低いのかやぐらに乗ったパンタグラフが路面電車のようです。右床下にぶら下がっているのはエアータンクでしょうか?阪急デロみたいにMG~ってことは無いですね。

この後は菊池方面に行かず、71に乗って鹿児島本線との接続駅上熊本へ・・・

北熊本からの右への雄大なカーブをきり、サミットのトンネルを抜け、丘を下る~短いが変化富んだ沿線風景は印象に残りました。

(6)上熊本の構内です。国鉄駅の片隅に1面のホームに駅舎がある地方私鉄の典型的レイアウトです。貨車の授受のための連絡線が左奥に見え、国鉄貨車が停まっています。s47上熊本03R.jpg                 ホームに佇む71の姿もいいですが、気になったのは左手前の貨車です・・小柄な車体から台車がはみ出してますね~高校時代にたずねた福島交通の貨車を思い出しました。

(7)これが全景です。やはりナローの貨車のサイズですね!熊電のルーツは九州に多かった3フィート(910mm)だったそうですから、そのころのものを改軌した生き残りでしょうか?s47上熊本02ヤ1R.jpg

(8)下回りの拡大です。アーチバー台車の形も古めかしいし、トラスロッドもついていてやはりナロー時代のものではないかと思います。s47上熊本02ヤ1RR.jpgヤ1という記号はいったい何でしょうか、国鉄の記号と同じなら<ヤ>は一般営業用ではないですから、これも事業用貨車でしょうか?そういえば電車が牽いていたのはみんな国鉄の貨車だったし・・・

s47上熊本01R.jpg(9)再び構内風景です。71の手前の線路は、国鉄駅前広場に併用軌道のように突っ込んでいました、さらにユニークだったのは駅前の市電終点に繋がっていたこと~もちろん軌間が違うので直通など出来ませんが~なぜああなっていたのか、どなたかご存知でしょうか?

上熊本支線(って呼ばれるかどうか?)の雰囲気がとても気に入り、翌年にも訪れました。そのお話は機会を見て致しましょう~

そういえば、貨物が無くなったのにこの支線が今も健在なのはうれしいことですね。ではまた!


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狂電関人

Cedarさま

そうです、私が見た古典貨車はこのヤ1です。
あの日、何処をどのように移動したか忘れてますが、
藤崎宮から上熊本に移動してそこから国鉄で帰ったようです。
by 狂電関人 (2012-04-12 22:32) 

EF510-230

上熊本支線は廃止の噂も出ています。
by EF510-230 (2012-04-12 23:22) 

利きゅう

混合列車・・・素晴らしいです!!

私鉄車両めぐりによると、ヤ1は1923年の改軌・電化時に新製された貨車でヤ2が戦後改番されヤ1になったそうです。
ヤの意味は有蓋車、屋根のヤみたいです。

軽便軌道からの改軌で軌道の悪さからボギー車になったみたいで、その点は福島交通飯坂東線と同じですね!!
by 利きゅう (2012-04-13 00:04) 

Cedar

■狂電関人様
おお~、ってことは同じルートで訪ねたわけですね。
私も結果、菊池方面へは行かず終いでした。
■EF510-320様
やはり。
貨物無かったら、存在意義は?ですね。
■利きゅう様
その昔は、東京近郊なら流山で見られた混合電車。
コンテナ時代の今じゃあ考えられない光景ですね。
福島交通(飯坂東線)の印象は強烈でした。
拙ブログに訪問記事あります。
by Cedar (2012-04-13 12:44) 

Cedar

★プント様
nice!ありがとうございます
by Cedar (2012-04-13 12:45) 

Junior

3フィートなら914.4mmですよ〜。

とまぁ、重箱の隅突きはさておき、この鉄道、路面を走る区間があるのに旭川電軌と同様に排障器は全く装備されていないんですね。
新潟交通や福井鉄道は装備してたけど、路面軌道があるからと言って排障器取り付け義務はなさそうですね。
by Junior (2012-04-13 14:07) 

京阪快急3000

こんばんは。

「混合列車」を機関車ではなく、電車が牽引しているのが、地方私鉄らしいところだと思いました。

貴重なお写真、ありがとうございました。

続きも期待しています。
by 京阪快急3000 (2012-04-13 17:46) 

Cedar

■junior様
あはは、914.4mmでしたね、でも910mmの所もあったかと(笑)。
スペインとポルトガルの軌間は公式には違うのに、普通に直通してますし。
って話はさておき、フェンダーの有無は如何なる基準ですかね?
この区間も近鉄奈良と同じく踏切扱いですか?
■京阪快急3000様
昭和40年代までは、所謂田舎電車があちこちに健在でした。
熊本電鉄は残った数少ない線区のひとつです。
当時でも前途多難かな?と感じた程でした。
★しまふくろう様
nice!
ありがとうございます
by Cedar (2012-04-13 21:07) 

You-enてっど

Cedarさま

失礼いたします。
先週の土日に大阪梅田で開催されたPEミーティングでお会いしたTadさまからこちらのブログをご紹介いただきました。
(昨年のPEミーティングでお会いしているようです。)
故郷の懐かしい画像を興味深く拝見させていただきました。

>71の手前の線路は、国鉄駅前広場に併用軌道のように突っ込んでいました、さらにユニークだったのは駅前の市電終点に繋がっていたこと~もちろん軌間が違うので直通など出来ませんが~なぜああなっていたのか、

小生の知人が開設している下記のサイトに答えがあります。
参考になるかと思います。
http://tram.2-d.jp/kt/database/topics/tc_home.htm
熊本電鉄の上熊本~北熊本間の路線の変遷に熊本市電も絡んできているので少々複雑な経過をたどっているようです。

今後ともなにとぞよろしくお願い申し上げます。
by You-enてっど (2012-04-14 05:59) 

のり

良き時代の地方私鉄の画像、大変楽しませていただいております。
交通機関として、地元に密着していた頃の地方私鉄の記録として、大変貴重なのではないかと思います。
軌間の違うレールが繋がっていた・・・、そういえば、近鉄橿原神宮前駅にもそんなところがあったような気がしております。標準軌の橿原線と狭軌の南大阪・吉野線、確か駅の東端にそんなところがあったような・・・。
by のり (2012-04-14 09:04) 

Cedar

■You-enてっど様
ご訪問ありがとうございます。TadさんからもPEミートの様子や貴兄のサイトの情報は戴いておりまして、貴サイトにも訪問させていただきました。
実は私が行った年代の記憶が誤っていたようで、この訪問は昭和45年の3月だったようです。市電の線路を確かに見ていているのに、市電坪井線廃止は昭和45年ですね・・・何しろ昔のことで・・・
色々とご教授ありがとうございました、今後とも何卒よろしくお願いいたします。
■のり様
こういう時代に辛うじて間に合ったのはホントに良かったと思います。
3線区間のなぞはYou-enてっど様のおかげで解消しました。
近鉄橿原神宮前のは工場入場時に台車をとり替えるための施設のようです。


★gardenwalker様
★シュウチャン様
★しまふくろう様
nice!ありがとうございます


by Cedar (2012-04-14 11:36) 

紅玉国光(富山市)

熊電70形、その昔は旧・広浜鉄道の買収国電モハ90(初代)形は、直接制御だったのでMGは持っていないと思われ、やはり床下のはエヤータンクでしょう。(機関車代用を兼ねる、と云う意味合いで、原爆被害から生き残った3両全車を払い下げて貰ったものと推量)

有蓋貨車を屋根のヤで呼ぶ(無蓋車はム)のは、国鉄部内でも「ヤネ車」と云う電略呼称がありましたし、南満州鉄道は正式に車両称号(ヤイ、ヤニ、ヤサ……ヤロ、ヤナ)にもしておりました。
by 紅玉国光(富山市) (2012-04-15 10:08) 

Cedar

■紅玉国光(富山市)様
阪急のデロがMGを前面床下に増設したのと同じ場所にエアータンクだったわけですね、ぢちらも小形車で台車間には増設スペースが無かったのでしょう。

満鉄の形式呼称は独特でしたね。
by Cedar (2012-04-15 22:26) 

紅玉国光

今にして思えば、モハ90(初代)形改め熊電70形のエヤータンク、万が一大型自動車相手の踏切事故でも起きた時には、破壊される虞があったのでは……?
製造当初からこうだったのかどうかは寡聞にして存じませんが、
小田急で2400系が衝突したトラックを巻き込み、制動装置が壊されて止まらず鉄橋から転落した事故が起きた事もありますし、
現在だったら監督官庁から物言いが付いたかも知れませんね……。
熊電は比較的低速走行ではありますが、ほぼ全線に亘って道路と並行していたり併用軌道もあるしで、潜在的な危険はあったと思われます。
by 紅玉国光 (2013-02-23 16:50) 

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