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OER~昭和47年 [昔鉄スナップ]

 TKK、KDK、KTR、KHK、そしてOER。放送局の略称みたいですが、なんだかお判りですか?

今はすっかり影を潜めてしまいましたが、昭和40年代くらいまで、東京の私鉄各社は、自社の英文略称をあちこちに表記していました。OERは勿論田急ですね。

今日は昭和47年の夏、千代田線乗り入れ前の代々木八幡~東北沢あたりの様子です。代々木八幡s4808-04.jpg

   (1)千代田線乗り入れで線路やホームが変わる前の代々木八幡。  2400形HE車を先頭とした箱根湯本+江ノ島行きの急行が通過します。私どもの世代は、小田急の急行といえばこの分割列車を思い浮かべます。2400形のソファーのようなシートは、とても座り心地が良く、急行で小田原まで乗っても疲れませんでしたね。

(2)新宿行き各停のしんがりは、HE車の冷房試験車、当時、OERの通勤冷房車はコレ1両だったはずです。この頃から一気に電車の冷房化が進展しました。代々木八幡s4808-02.jpg

(3)HE車の後継車のような愛称とは裏腹に、ドライな車内でファンをがっかりさせたNHE・2600形。大型車体に、HE車とは大違いの高く浅いシートで、詰め込み第一主義の通勤用でした。冷房の無かった当時は、運転台後ろの戸袋窓を夏はルーバーとして、通風を良くしていました。代々木八幡s4808-03.jpg

(4)国電ロクサンの更新車1800形もまだ健在でした。切妻車体に小田急フェイスのパーツを配しても、人気はイマイチでした(私は好きでしたが・・・)、後ろにつながっているのは4000形のようですね。このちぐはぐ編成も小田急らしくなく、これも密かに好きでしたが、脱線事故を起こして連結中止となりました。

代々木八幡s4808-01.jpg (1)にも写っていますが、この踏切には警手さんがいたのですね。

(5)最後は旧型吊り掛け車の異端児1300形です。両開き2扉という不思議な車体に乗せかえられたせいで、新聞・荷物輸送に使われていました。形式もデハ→デニになっていたと思います。塗装も旅客車とは違うローズピンク色でした。天邪鬼鉄だった私は模型化にトライしました(完成せずデシタ・・)。この仲間の1両は、一時期パイオニア台車を履いていました。代々木八幡s4808-05.jpg

この年の10月20日に 千代田線はこの真下の代々木公園駅まで延びてきましたが、直通運転開始までは更に6年かかりました。乗換えの便を図って代々木八幡に準急が停車していたこともありました。

続いては、ふたつ小田原よりの東北沢。開業以来の退避設備があり、撮影しやすい場所でした。東北沢s4808-03.jpg (6)この時は跨線橋から撮影してみました。やってきた下り各停は4000形の3連。いつも混んでいる小田急にも、こんな運用が有ったのですね。

東北沢s4808-01.jpg (7)上りの各停が発車していきます。2220形でしょうか?当時はまだ、代々木上原寄りに開業時からの砂利ホッパー線が残っていて、そこへ入る渡り線と、分岐(上り列車の先頭の右側)がありました。

東北沢s4808-02.jpg(8)先ほど新宿に向かった1300形が新聞電となって戻ってきました。各停を待たせて夕刊を沿線に急送します。こういう電車が各私鉄にあったのも、今は思い出ですね。

 と、言う感じで、今日は昭和47年夏のOERのスナップでした。


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コメント 12

む〜さん

鉄道趣味も一時薄めになっていた頃・・・・長男とともに釣りに夢中・・・・で、ろくに写真を撮っていない時期でした。まあ、たまには次男と「電車汽車に乗る旅」はやってましたが。
東北沢の砂利線もとうとう写さずに終わってしまいました。残念無念!

ゲテモノも好きな私、1800は更新車体のチョコレート色時代が好きでした。
2600NHE・・・・浅い椅子はがっかりでしたね。以後、みんな浅くなっちゃった。2400など、足の短い私なんか、深く座ると、足が床から離れてしまいました(笑)。
by む〜さん (2010-08-28 00:31) 

manamana

2600系の窓が1枚窓?と思ったら、
全開ですね。
エアコンのない電車なんて想像できないです。
by manamana (2010-08-28 06:14) 

Cedar

■む~さん様
この頃は鉄好きの友人の家~仲間の溜まり場でした~が豪徳寺の近くにあって、小田急はその行きかえりに利用しました。この写真も仲間と撮ったものだと思います。
果てしも無い鉄道をめぐる与太話、模型談義・・・悪い遊びや酒にも染まらず、真面目な鉄道青年だったなあ、と回顧気分を味わっております。
■manamana様
そうなんです、この頃は冷房車はまだまだ試作段階、おとなりの京王線がパイオニアでした。小田急の冷房車導入直後に、温度設定がめちゃくちゃ低くて、なんと車内気温が15度くらいになっちゃっていて、関節が固まり、脂汗が出てきた記憶があります。エアコンというより冷却機!
by Cedar (2010-08-28 08:06) 

のり

冷房電車なんてまだまだ夢のような存在でしたね。電車に冷房がないのは当たり前の時代でした。今では、転落防止のため窓の開き方も小さくなってしまいましたが、この当時は全開が可能でしたね。
by のり (2010-08-28 10:15) 

Cedar

のり様
今年のこの暑さで、この時代の電車だったらと思うとぞっとしますね・・
でも冷房化→都市のヒートアイランド化→温暖化・・みたいな図式も有りそうですし。ニンゲンのわがままと贅沢はきりがありません(笑)。

窓全開の電車は気が付いてみたらほぼ全滅ですね。転落の危険は今も昔も変わらないのですから、結局はマナー・モラルの低下が原因なのでしょうか?
by Cedar (2010-08-28 12:35) 

ドラもん

まだまだ、のんびりした昼下がりの感じです。
窓全開の電車、今ではあり得ない光景になってしまいました。
by ドラもん (2010-08-28 17:10) 

Cedar

ドラもん様
今や一日中混雑している感のある小田急・・あの頃は昼間の電車はのんびりした感じもありました、各停は18m4連か20m3連で間に合っていたのですから、隔世の感があります。小田急顔も後少しで見納めですしね。
by Cedar (2010-08-28 22:42) 

Cedar

nexus6様
nice!ありがとうございます。

by Cedar (2010-08-28 22:44) 

twingo583

確かに昔はOERやKDKやKHKって表記が普通にされていましたね。小田急も今の姿とは隔世の感があります。窓全開の醍醐味、すっかり無くなってしまいました。タイで12系の窓を全開にして乗ったとき、気持ちよかったです。
by twingo583 (2010-08-29 08:24) 

Cedar

twingo583様
タイの12系は乗っていませんが旧型客車も窓全開に出来ました。バンコクからロップブリーまで鈍行で行った時、全開の窓から田舎の香水(=肥しのニオイを昔はこういいました)のニオイをかいだり、オバちゃんから窓越しにカオトムを買ったりしたのが懐かしいです。
by Cedar (2010-08-29 12:53) 

あおたけ

切妻顔の1800形、私も好きでした。国鉄から小田急、
そして晩年は秩父鉄道でも活躍していましたね。
2400形はちょっと短めの車体長の先頭車が、
スポーツカーっぽくって、カッコ良かったなぁ・・・。
by あおたけ (2010-08-30 13:44) 

Cedar

あおたけ様
1800形はある意味今の小田急の基礎を作った車両といえますね。20m車導入のパイオニアだったのですから、山陽の700型と同じです。

2400もユニークでした、15mのTc+19mのM車×2ユニット=4両で18m4両分の輸送力と言う事らしいです。
当時の私鉄は各社それぞれ個性がありましたね。
by Cedar (2010-08-30 15:08) 

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