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神明町の昭和2枚写真 [都電のいる風景]

このブログでも何度かお話しているように、Cedarは城北地区の某エリアに生まれ育ち、都電好きの父の影響で、電車大好きになった鉄ガキの成れの果てであります。 

神明町s37拡大.jpg銀座廃止40番神明町拡大.JPG          今日は、わがルーツとでも言うべき都電40番(神明町⇔銀座)の画像2枚~撮影場所は、我が家からも近く、40番の始発場所だった神明町(車庫前)です。いずれも発車待ちの姿を父が撮ったものです

まずは昭和36年の40番、電車は木造車の下回りを使って戦前作られた小形車1000形です。同系で前面が少し傾いた1100形とともに、Cedarがガキの頃の40番の主力でした。

この1056は、明治時代の路面電車でおなじみのブリル台車を履いていて床が高く、ガキの頃にはよじ登るように乗車した記憶があります=ご覧のように拡張前の不忍通りには安全地帯など無かったですから・・・撮影の詳細日時は不明ですが、秋から春の<旗日>だったようです=ところで皆様、旗日ってのは祝日のこと=お分りですか?s36神明町1000.jpg              銀座廃止40番神明町.JPG              こちらは1000形の写真から6年後の昭和42年12月、都電銀座線の廃止の日の40番。この日限りの銀座に撮影に向かう前に撮ったものです。2枚ともに写っている分岐線は神明町車庫の出入庫線。時代は変わっても停止(乗車)位置は同じですね。

最後は神明町と目黒にしか残っていなかった1000・1100はとうに消え去っていて、6000・7000といったどこにでもいた形式に変っていました。この6283は鋳鋼台車を履いていて、「佃煮みたいにみな同じ」な6000の中で、少しモダンな感じがしました。

6年の時間経過で電車こそ変ったものの、電車の後ろの町並みに激しい変化はありません。やはりこの頃は時間がゆっくりと流れていましたね。

せいぜい牛乳店が商売変えしたくらいでしょうか? 

神明町牛乳店s36.JPG神明町元牛乳店s42.JPG                しかし牛乳店から燃料と氷の商いへ、って変身もよく分かりませんけど・・・

Cedarの家から坂を下ると40番と20番が走る電車通りに出ます。低い軒並みに様々な商店が看板を掲げて並ぶ写真のような町並みもいまや懐かしい~ガキの時分は坂下の通りは賑やかだと思っていましたが、今見るといかにも場末っぽい町並みですねえ。s36神明町1000町並み.jpg銀座はシイ.JPG                上が36年、下が42年です。同じ建物に看板が少し増えてますが、干されたステテコが時代を感じます。

昭和40年代にまず区画整理で道が広がり、クルマが増えた沿道の商店がビルになっていきました~まさに映画「3丁目の夕陽」や浅田二郎の小説「霞町物語」のような変化が東京中で起こっていたのですね。

この神明町から電車が消えたのは昭和46年、20番の廃止の時でした。

その頃は大学生になっていたCederでしたが、「ま、しょうがないやな」と江戸っ子の諦めで思っていて、特に写真も撮らなかったような気がします。赤レンガの神明町電車営業所の建物くらい撮っておけばよかったなあ~と今になって思うのです。

てなわけで、神明町の昭和2枚写真でした。


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コメント 17

はーさん

40系統、20系統は上野公園から不忍池のほとりの専用線に入って行きましたね。その先になにがあるのだろう?とミステリアスなものを感じました。都電も住んでいる地域と渋谷、新宿、銀座のような繁華街以外はほとんど未知の世界が広がっているように感じました。
昭和30年の中頃、青山に居ましたので、9、10系統はお馴染みでしたが、9系統は青山渋谷から銀座4丁目を通り、水天宮浜町まで行っていました。車掌さんが「水天宮から浜町河岸まで参ります」なんて案内をしており、浜町河岸とはどんなところ?といろいろ空想して楽しみました。
都電で最もクラシックな感じの1000,1100形が北から40系統、南から4系統(五反田~銀座2、目黒車庫坦当)が銀座通りに乗り入れていたのは面白いですね。
by はーさん (2012-10-11 16:24) 

Cedar

■はーさん様
青山にお住まいだったら、神明町なんて地の果てって感じますよね。
都電の系統は山の手から都心、本所深川千住といった場末(下町ではないです)と都心を結ぶようになっていましたね。
40番も旧郊外から本来の下町、都心と走っていました。

by Cedar (2012-10-11 18:56) 

Cedar

★hanamura様
nice!ありがとうございます
by Cedar (2012-10-11 18:58) 

Cedar

★nd502様
★フジトモ様
★やまびこ3様
nice!ありがとうございます
by Cedar (2012-10-11 22:00) 

あるまーき

こんばんは。
自分は、今月初めに神明車庫跡を訪問しましたが、不忍通りの変貌ぶりは、やはりすごいものがありますね。
貴重なお写真をありがとうございます。
by あるまーき (2012-10-11 22:05) 

Chitetsu

神明町という名前の響き、いいですね。
昔から好きでした…その割にそれがどこなのか割と最近まで知りませんでした。
1000型と背景の家並み、どちらも良き時代の東京を感じます。
親の実家の大塚仲町に池袋から都電に乗った時の途中で照明がきれたりゴロゴロと揺れた記憶と何故かダブりました。
by Chitetsu (2012-10-12 07:01) 

Cedar

■あるまーき様
実は、貴ブログの神明町訪問された記事にインスパイアされ、この記事を思いつきました。本当は、今の不忍通りの様子も並べたら良かったのですが、なにしろものぐさなもので。
■Chitetsu様
神明町は駒込以外に芝にもありますね、どちらも神明神社に由来する町名です。そんな由緒ある町名も田舎者の約人が勝手に変えてしまいました。それに反対しないのが江戸っ子の駄目なところなんです。

★シュウチャン様
★oomori様
★プント様
nice!ありがとうございます
by Cedar (2012-10-12 07:45) 

EF510-230

中学の同級生がこの近くの産婦人科医の息子でしたので、遊びに行ったことがあります。今は後を継いでいるかと?
by EF510-230 (2012-10-12 14:07) 

Tad

写真の牛乳屋の裏ッ手あたり住んでる妹は神明町としか云わないですね。お上がどう変えようと地元民は“昔の名前で出ています”のまま。

ワタクシの生家のある町は,何のつもりか町名改正では「町」の一字だけ削られましたけど,やっぱり今でも町のついてる方で呼んでます。
ここは戦後の23区制になってから随分と細かに分けられたとこですが,明治時代の古い地図を見ると同じ町名でもかなり広範囲で,そんな時代に生きてたら,木戸孝允も与謝野鉄幹・晶子御夫妻も内田百閒先生も同町内てェことになります…。
by Tad (2012-10-13 02:26) 

Cedar

■EF510-230様
あの辺りには2年前位に行ったっきりです。意外と古い住民が多いのは、すみやすいエリアなのでしょうか?交通の便もイマイチですしね・・・
■Tad様
>地元民は“昔の名前で出ています”
そうなんですよね。神明町は結構使われていますね。
そもそも谷根千とか言われても、元地元民としてはピンときません。谷中は全く別のエリアでしたからね。(=でもあのネーミング考えた女史は地元民だったりする)
うちの旧町名は駒込動坂町、ご町内にはかの志ん生師匠(もちろん2人の倅さんも!)、最後の浮世絵師=攻め絵師の伊藤晴雨、講釈師桃川円遊などがいましたね。

★プント様
★oomori様
★シュウチャン様
nice!ありがとうございます




by Cedar (2012-10-13 10:02) 

Tad

> ご町内にはかの志ん生師匠(もちろん2人の倅さんも!)

これが羨ましくって…。芸能・芸術系エリアですもんね。志ん朝さんが小学校の先輩ってのは誇れますよねえ。アタクシの小学校の先輩じゃ,こんだ文部科学大臣になったアノ人なんかですから気恥ずかしいっす。

妹も谷根千なんぞとは云わんです。

> 駒込動坂町

駒込に限らず,本郷・小石川・牛込にしても,青山や麻布にしても,せっかくの由緒ある頭を取っぱずしたり,まったく記号的に別名にしたりってのは,明らかにイナカモン役人の「東京羨ましい→だからネタマシイ→ヘン,俺には変える力があるんだぞ,ザマーミロ」的発想としか思えませんナァ。
by Tad (2012-10-13 13:55) 

伊豆之国

私の幼少時代は、世田谷の「玉電」沿線の住人だったので、路面電車には親しみを持っていたものの、都電はせいぜい渋谷で見るくらいで、実際に乗ったことは数えるほどしかなく、そしてその都電が次々と消えて行くのを空しく見送っていた世代だったのでした。それでも、「水天宮浜町」「須田町」「金杉橋」といった行き先表示や、上野の動物園に行ったときに都電の専用軌道の踏切を渡ったことははっきり記憶しており、銀座通りを走っていた都電の姿もおぼろげながら記憶にあります。私が「都電に乗り、そして撮る」ためだけに都電を乗り回したのは、高校に入った頃、存続が事実上決まった「荒川線」や、下町を走っていた「城東電車」の各線の廃止直前の姿を撮りに行ったのが最初でした。
都電の廃止が進んでいた頃、23区内の町名も「住居表示」とやらで次々と変えられ、都電の停留所名も、例えば「高樹町」「霞町」がそれぞれ「南青山七丁目」「西麻布」というように、それに伴って変えられたところが多かったようです。新しく開発された団地に新町名をつけるというならともかく、やはり市街地の伝統的な町名については、広い範囲を無理やり一つの町名ににまとめて丁目で分けるというやり方では、強引過ぎてかえってわかりにくくなったような気もします。新宿区の牛込地区は、こうした町名の無粋な統廃合をしなかったので、従前の町名の多くが今も残されています。金沢や長崎では、旧町名復活の運動が盛んになって、実際にいったん消えた旧町名を最近になって復活させたところがいくつかあります。
by 伊豆之国 (2012-10-13 21:46) 

Cedar

■Tad様
>イナカモン役人の「東京羨ましい→だからネタマシイ→ヘン,俺には変える力があるんだぞ,ザマーミロ」的発想~
よくうちの母親が「自分の故郷こんなこと、絶対しないに違いないよ」って言ってました=いったい何のためにあんなことしたのか?誰にとって不便だったのか今だに分らないですよね。
■伊豆之国様
都電廃止の頃は東京ががむしゃらに姿を変えていった頃でした。オ
リンピックの後の虚脱感の中で、都電は邪魔者扱いされ、古い由緒ある町名は東西南北や、何の根拠も無い「元だの本だの」をつけたものに変えられました。
表立った反対もせず「ま、仕様がねえやな」と受け入れてしまうのも、江戸っ子の悪い癖ですね。牛込辺りは山の手(=士族華族の居住エリア)だから反対する人がいたのでしょうが、下町では反対は殆ど表面化しなかったです。
by Cedar (2012-10-14 08:53) 

Cedar

★COLE様
★arail206様
★あおたけ様
★とーる様
★UZ様
nice!ありがとうございます

by Cedar (2012-10-14 08:55) 

NO NAME

今日,妹に会ったので聞いてみたら,牛乳屋さん→氷屋さんはケーキ屋さんになってるそうです。Googleのストリートビューだとまだ氷屋さんのままですが,その家並みがCedarさんの写真と変わってないのが嬉しいですね。
不忍通りの拡幅工事は遅々として進んでませんが,拡幅する道路北側の家は,新築する時にはその道路幅に合わせた位置まで引っ込ませなければならないので,それが終るとケーキ屋さんは2/3くらい削られ,同じ三角形のブロックにある妹の家が道路に面するようになっちゃうとも云ってました。古くからの住人が多いだけに,立ち退きでもしない限り工事は完了しないので,まだこの風景は残るでしょうが,今のうちに今回の2枚と定点比較できる写真を撮っておくのがいいかも知れませんね。
by NO NAME (2012-10-15 02:44) 

なにわ

1000、1100、1200が小ぶりに見えるのって、幅が広いからなんですよね。これを調べていて放置状態になってたんで。
6000なんか2210mm(て、ことは7フィート3インチ)と、明治末期の電車の幅しかありゃあせんのだから。

逆に大阪の中型車が12m以上あるのに幅が2440mmもあるんで、大きく見えないんでしょうか。

by なにわ (2012-11-09 17:46) 

Cedar

■なにわ様
都電1000系列は確かに6000よりも幅広だったのですねえ。幅・長さとも小さかったのは700・800でした。
1435mmということもあって、大阪の電車はとにかくでかいですね。始めて関西に行った頃には都心からは姿を消していて、阪急東口から天六までコバルトブルーの帯を締めた2600(?)に乗ったのが唯一の体験でしたが、「でけえ電車」と思ったのを憶えています。
by Cedar (2012-11-09 20:25) 

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