昭和44年冬、雪の日の玉電(その1~思い出の道) [今昔鉄写真]
東京にもついに初雪が降りましたねえ・・・・
その昔、時間とやる気がたくさんあった頃は、雪となると線路沿いに出かけたものでした。今回見ていただくのは今から44年前に消えた玉電廃止の年の雪景色。場所は桜新町~用賀間です。(1) この線路跡の道は月1回ほどのペースで歩きます(桜新町に行きつけの床屋があるので・・・)。そのたびに、ここに電車が走っていた頃を思い出します。そんな場所なので、今日は現在の様子と対比してご覧に入れようと思います。
桜新町から用賀に向かう元の電車道は、今でも<旧道>と呼ばれています。桜新町の駅前辺りは道も広いですが、少し用賀方面に行くと道も狭くなり、農村だった頃をしのばせる家も、まだ残っていたりします。(2・3)
昭和44年、冬の光景。用賀方面から(2・3)の辺りを見ています。旧大山街道の面影が残る狭い道は、電車の軌道も、田舎の電車のように偏って敷かれていました。(4) 当時のこの辺りは高い建物も無く、ケヤキの大木もあちこちに残っていて、田舎臭い角ばったデザインの40形が降りしきる雪の中から現れると、<ここは東京か?>と思ったものです。(5)現在の同じ場所です。ここ10年で急速にマンションが建ち並び、緑がどんどん減りましたね。
この道の下には東急田園都市線が走っています~旧玉電通りでは、この路線名よりも新玉川線=玉電の代替として開通したことがよくわかります=がふさわしいですね。実際に世田谷の住人は(しんたません)と呼ぶ人もいまだに多いです。
横道から、走ってくる電車のサイドを撮っていました~今見ると生垣のある家並みや、木々の植え込みに目が行きます。福島交通か花巻電鉄か、という雰囲気ですね。この辺り沿道には植木屋さんが多く、右の角も植木屋さんでした。(8)(9)上と同じ場所、うれしいことに電車右側の木が、そのまま残っていました、幹がずいぶん太くなっています。植木屋さんもマンションになり一角のフラワーショップに衣替えしました。ひなびた住宅街だったこの辺りも、おしゃれなショップがちらほら出来ています。
前の写真の三叉路の角から、用賀方面に走り去っていく107の後追いショットです。電車の右横のうっそうとした木立は、この辺の地主さんのお宅で、敷地内には竹薮もありました。(10)
今では地主さんのお宅の木立もずいぶん整理されました。電車の上り線だった部分には、歩道も造られています。左手前の建物は酒屋さんですが、このお店も当時からありました。(古い写真で電車の左にホーローの看板が写っていますが、このお店のものです。)(11)
(12)(13) さらに用賀に向かっていくと、下り坂になる地点で旧大山道は右にそれていきますが、電車は専用軌道をまっすぐ下っていきます。
(14)上の写真の場所の現在の様子です。クルマがいるあたりで、旧街道が右に分かれます。ひときわ高く聳えるビルは、かつての玉電引込み線の跡地につSBS(世田谷ビジネススクエア)。(15) 旧道と専用軌道の別れる場所にあったクルマの販売店と渋谷行き80形。
(17・18)高いケヤキの間を抜けていく玉電、これぞ世田谷~と感じるのは私の世代だからでしょうね。複線軌道が偏っているのがよくわかります。 30・40形のビューゲルはシューの形が独特でした。そういえばなぜかこの日は、通常はラッシュ時にしか走らない古参が出動していました。雪と関係あるのでしょうか?(19)あんなにたくさんあった木立も、今ではマンションのシンボルツリーとして残っているものがほんの少し~マンションの住む人もここに電車が走っていたことを知らない人がほとんどでしょうね。町は変わっていくものだ。と頭ではわかっていても、なんだかなあ~と思ってしまうのです。
上の位置から、振り返ってみる一直線の坂道は、玉電の専用軌道の跡です。坂を下りた辺りに用賀駅がありました。
(21)雪の坂を用賀から登ってくる45。上と同じ撮影位置から見ています。電車の後ろに高い建物は無く、ケヤキだけが聳えていました。せっかく直線の専用軌道なのに制限速度20kmとは下り坂だからでしょうか~いまの世田谷線もですが、玉電はかなり鈍足でした。
(22・23)古い集落だった用賀の町を抜ける道路はご覧のように今も狭いままです、電車は集落の裏を道路から離れて走ったのでしょうね。街道筋らしい風情が消えてしまうのも時間の問題・・・?
(24)(25) 昭和44年の写真が傾いていたので、今の景色も<斜に構えて>みました。
雪が降ったら出そうと思っていたネタを、やっと出せました。今回はこのへんで~
貴重な映像!貴重な経験!うわぁぁ!凄いなぁ!
by hanamura (2012-01-21 18:49)
43年もたちゃあ、建物も建て替わるものですが、上へ伸び過ぎちゃいましたよ、変わりすぎですわ。
by なにわ (2012-01-21 19:05)
いいなぁ…この風景にはペコちゃんやデハ150形よりデハ30、40形がよく似合いますね(デハ80でさえ近代的に見える)。
世田谷は雪が積もったのでしょうか? 当地はちらちらと舞いはしたものの、ほぼ冷たい雨。寒いだけで欲求不満です(笑)。
by maipenrai (2012-01-21 20:02)
定点観測、実に興味深くて面白いですね。
玉電が走っていたのも、遠い昔のお話になってしまいました。世田谷線だけは生き残って元気に活動していますね。それだけでも良しとしなければならないのでしょうね。
貴重なお写真ありがとうございます。
by のり (2012-01-21 21:12)
またまた「故郷」の電車ネタなので反応させていただきます。
先週の日曜(15日)、今年もボロ市を見てきました。いつもの通り三軒茶屋で降りて「玉電」に乗り換え、上町で降りてボロ市通りの中へ入る、代官屋敷の敷地内の郷土資料館を見る‥という「ワンパターン」。いつもの年ならば、代官屋敷の向かい側の「せたしん」の広場で姉妹都市の萩市や柏崎市などの物産展をやっているのですが、今年は「震災復興支援」ということで福島県や岩手県などの特別物産展になっていました。通りの西側のほうに「世田谷に残る古い建物を守り、残そう」というサークルの展示場所があり、何人かの「仲間」が入れ替わりながら「説明」をしてくれたので、夢中になって長々と聞き入ってしまいました。
私の幼い頃の雪の日の思い出、というと、確か小学4年か5年の冬に大雪があって、学校が臨時休校になったことがあったのを覚えています。その日だったかどうかは覚えていませんが、雪合戦をしたり、そりを作って雪の中を滑って遊んだ記憶があります。桜新町~用賀~瀬田界隈の、狭い道の端っこを玉電が走り抜ける風景は、今も私の脳裏に強烈な印象を残しています。
by 伊豆之国 (2012-01-21 21:29)
なんだか現代の方が道幅が狭まったように見えます。
ここを電車が走っていたなんて、想像がつきません。
by manamana (2012-01-22 00:28)
■hanamura様
貴重って事は無く、日常だったんです。当時から桜新町に鉄仲間の親友がいまして、しょっちゅうこの界隈に出没していたのです。
■なにわ様
東京はどこまで上に伸びれば気がすむんでしょうか?香港みたになってしまうんですかね?やだなあ~
■maipenrai様
30,40形が当時はあまりに鈍重な感じがして好きになれずでしたが、大人に(?)なるにつれ好きになってきました。世田谷の雪も積もらずで、ン10年ぶりに雪の撮影しようというも目論見は空振りでしたね。
■のり様
定点観測は元写真があるときはトライしますが、東京と言う堪え性無い町に住んでると景色の激変ぶりに驚きます。今回の場所など、建物は変ってますが道幅とかは昔ののままなのはむしろ珍しいですね。
■伊豆之国様
ボロ市に行かれましたか。今年はパスしましたが世田谷線も臨時電車出して頑張ったようです。
■manamana様
私もあの道を歩くたび、ここに複線軌道が走ってたなんて・・・と信じられない思いです。
by Cedar (2012-01-22 01:08)
★nd502様
★しまりす様
nice!ありがとうございます。
by Cedar (2012-01-22 01:10)
★ひもブレーキ様
★とーる様
★nexus6様
nice!ありがとうございます
by Cedar (2012-01-22 17:39)
玉電 子供の時の乗車の記憶がかすかにあります
懐かしいです
by COLE (2012-01-22 20:26)
■COLE様
<たまでん>と言う言葉を知らない世田谷人も増えている昨今です。まあ仕方ないですが=やはり新玉川線→田園都市線への改名はイケナカッタですね。
by Cedar (2012-01-22 21:25)
ブログご訪問並びにniceを頂き、ありがとうございました。
Cedar様のブログは以前から楽しく拝見させて頂いておりました。
鉄道に興味を持って数ヶ月、関東に引っ越して実際に車両を見たり
乗れたり出来るようになって1ヶ月の若輩者ですが、今後も色々
ご教授の程よろしくお願い致します。
京成千葉駅はJR千葉駅東口から徒歩1分程度で隣接しており、
実質千葉そごうの1階と言って良い場所に入り口があります。
ここが昔は「国鉄千葉駅前」駅だったとは、どう見ても
イメージが沸かないですね~
by プント (2012-01-22 21:57)
■ブント様
コメントありがとうございます。こちら東京城北生まれ世田谷在住半分千葉県市川市民(?)です。
京成にはガキの頃から親しんでいました。
今後も楽しく宜しくお願いいたします。
by Cedar (2012-01-23 21:59)
★boo様
★denta60様
nice!ありがとうございます
by Cedar (2012-01-23 22:02)
昨年末に世田谷区民会館集会室で開催されたシンポジウム『公共建築のこれから-とことん使う知恵』で、建築家野沢正光先生は、今世紀末に四千万人台に減少するとも予想されている日本における人口減少、そして持続可能な経済・社会の追求を前提に、二十世紀の無限成長建築・都市の代替となるべき脱成長建築・都市を構想しつつ、「減築」という理念の重要性を強調しておられました。野沢先生が1964年竣工のRC造三階建ての既存建築を二階建てに減築して再生した愛農学園の事例に保坂区長が強い関心を示し、野沢先生にいくつも質問を浴びせていたのが印象的でした。日本の空家率は13%といわれていますが、世田谷でさえ空き住戸数が約三万を数えるそうです。オフィスも住宅もあきらかに供給過剰なのですからもう「上に伸びる」必要はないはずなのですが...
ところで、伊豆之国様が言及されている前川國男設計の郷土資料館はプレストレストコンクリート造の小さな建物ですが、ルコルビュジエの「無限成長美術館」の影響があることは否めません。しかし、木立のなかに埋もれたその目立たない姿は大変好ましいもので、内部の「建築的プロムナード」の魅力もふくめて私が愛する建物のひとつです。
by Tosi (2012-01-23 22:26)
昔、路面電車が通っていたという道路を見ると「こんな幅の道に複線の軌道が通っていたの?」と思うことがあります。
横浜の鶴屋町辺りなど通るとそんな感じがします。でも、Cedar様のお写真のように、後から歩道が整備されたりして道幅が変わったりしているのでしょうね。
40形は重厚な感じがいいですね!!古強者と言った表現がぴったりです。80形もこの後の緑一色より、塗り分けの方が似合っていると思います。
私が生まれる約10年前ですが世田谷は未だこんな情景が残っていたんですねぇ。
by 利きゅう (2012-01-24 00:14)
雪の用賀界隈、いい写真集ですね。玉電の、桜新町~用賀~瀬田~二子玉川園あたり、好きだったなあ。
この頃のツートンカラーはデハ200的でしたが、じつは、その前の、下半分濃緑、上半分クリームって時代が好きでした。
無骨なデハ40、30、スマートなデハ80、思い出します。それにつけても宮の坂の、江ノ電のまんまのデハ80、何とかならないかなあと思いますね。私の玉電ランキングナンバー2(No.1はデハ30)ですので・・・・・。
by む〜さん (2012-01-24 08:30)
軌道が道路上を走り架線もあったのが、廃止されると途端に道幅が狭く感じられるのは不思議です。視界が架線で閉じられていたのが上に抜けて両側の建物などの谷間が深く見えるようになるからでしょうか?
玉電は30,40も好きですが中々手強く模型化の手が出ません。80も勿論好きでこれ↓を組み上げたのはもう7年も前になりました・・・
http://www.mtrain.jp/mtrain_forum/p2/mes/data/27/file/TKK80-050908.jpg
by きんぎょ/中澤 (2012-01-24 09:52)
■Tosi様
世田谷区はRISEやSBS、キャロットタワーといった、墓石のような建物をいくつつくれば気が済むのでしょうか?
環境破壊はもちろん、心理的圧迫も計り知れない、そういうものに100億近い税金を投入してる世田谷区の罪は重いです。
■利きゅう様
玉電はオリンピックで拡幅された246を走っていたホンの短い間だけが我が世の春でしたね。世田谷はLRTの活躍の余地のある地区だと思いますが、T急さんはやらないでしょうね。
■む~さん様
玉電の旧道の風景は、廃止の日も含め何度となく撮影しました。
私の知っている玉電はデハ200の色でした。その前の塗装は雑誌でしか見ていません~なにしろ我が家からはとても遠かったので・・
■きんぎょ/中澤様
>廃止されると途端に道幅が狭く感じられる
~確かにそうですね。周囲の高層化だけでないですね。
玉電は形式毎にスタイルがバラバラで一貫性がないですね~そこが面白いともいえますが・・・
by Cedar (2012-01-24 18:19)
★きゅんぱち様
★あおたけ様
★gardenwalker様
nice!ありがとうございます
by Cedar (2012-01-24 18:20)
玉電廃止の年はよく雪が降りましたね。私も同じような写真を撮っています。路面電車は玉電のように専用軌道がところどころにあるのが写欲が掻き立てられますね。昨年訪れたロンドン郊外のクロイドンのトラムリンクにはちょうど桜新町あたりによく似た感じの併用軌道があり親しみを感じました。もちろん専用軌道もあります。
by EF510-230 (2012-01-30 10:47)
■EF510-230様
>路面電車は~専用軌道がところどころにあるのが写欲が掻き立てられますね。
そうなんです、世田谷線みたいに全線専用軌道ではイマイチ面白くないんです。
今や日本~特に東京では楽しい路面電車の写真が撮りにくいですね。
by Cedar (2012-01-30 23:29)
おいら未だに"しんたません"と呼んじゃいますね。実家の家族間でも通じますが、名称変更後に結婚した相方には通じません。さすがに最近は慣れたようですが。
旧道を走るバスって玉電廃止後設定があったのでしょうか?結局今も残るバスは全便新道経由。幼き記憶で渋12や渋13は"新道経由"ってどこかに書いてあったようななかったような…。ならば旧道経由があってもよさそうですが、おいらの遡れる範囲だと渋12と13しかもうない時代でした。
by undo (2012-02-03 16:05)
■undo様
世田谷生まれの人は、川向こうの事業の名前がついてしまったのは違和感あるでしょうね。ちなみに家人も用賀生まれですのでいまだに田園都市線とは呼びません。
その話によれば新玉線開通してしばらくは旧道経由のバスも走っていたようで、開通前と打って変わってがらがらの旧道のバスで運転手としみじみ話しながら帰宅したとか・・・
by Cedar (2012-02-03 19:50)
★suzuran6様
nice!ありがとうございます
by Cedar (2012-02-03 19:51)
私は東京都立桜町高等学校の同窓会理事をしております。
Cedar様の懐かしい「私の生まれる前ですが」玉電の写真を拝見しました。
そのなかで学校近くを走る玉電の画像を拝見しまして、学校の文化祭の展示でお借りしたく、コメントさせていただきました。
展示のテーマは桜町今昔物語です。
私自身は新玉川線の時代でしたが、親の時代は玉電でした。在校生は田園都市線と名を変えた電車で通学していることでしょう。
在校生、卒業生に過去と現在をしてもらいたく、付近の画像を探しておりました。ご検討頂けますようお願い致します。
desk@ohyuukai.org
by テラ (2016-06-18 12:18)
■テラ様
コメント拝見&桜友会のHPも拝見しました。
画像の商業使用はお断りしていますが、学校展示などならその限りではないです。
WEBの画像のDLでよろしいなら、どうぞお使いください。展示にあたっては出自は明記いただきたいです。
私は今の場所に越すまでは20年ほど桜新町に住んでましたし、亡き妻は用賀生まれでした(学校は玉高でしたが・・・)。
by Cedar (2016-06-18 20:48)