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昭和36年冬の横浜市電@麦田 [昔鉄スナップ]

おっと!いきなりの女学生の写真、どうしたことでしょう?後ろには横浜市電の単車が2両~横浜s37?001拡大R.jpg(1)何度かブログでお話してますが、横浜市電の麦田という電停近くに親戚があり、父や母が出かけるときには、電車目当てにくっついて行きました。今日は昭和36年の冬に見かけた出来事の画像、撮影は父です。

(2)元町から山手の丘をトンネルで抜けたところが麦田です~(この画像は前にもご覧戴いたもの、子供用のフジペットでの撮影です)元町・桜木町方面へは右奥のトンネルを抜けていきます。元町からたった1停留所なのに、なんとも侘しい町並みですが、昭和30年代の横浜の町並ってこんな感じだったんです。s36麦田電停400エンド.jpg  この頃の横浜って、山の上と下で町並みの対比が今よりも極端でしたね。(黒澤明の「天国と地獄」、ジブリの「コクリコ坂から」でも、そこは重要なモチーフとして描かれていました。)

(3)電車やバスに乗るのは坂を下りて・・・~白いソックスを短くした足元もかわいい女学生は、丘の上(ひょっとしてF女学院?)の学校の生徒さんでしょうか?本牧方面の電停はここではないので、バス待ちですね。チラッと頭が見えてる車も懐かしいカタチ~日野ルノーでしょうか?横浜s37?001R.jpg   ここには市電の車庫があって(画像2で、左に分岐していくのが車庫線です)、横浜市電名物の2軸単車が多く配置されていました。このときは親戚の家に行くために電車を降りたら、後ろにくっついてきた電車の様子が変・・・なんと2両連結でやってきました!単車の輸送力不足を補うために連結運転開始?~なんてはずはなく、故障車を救援して車庫まで回送するためでした。故障車の536号はビューゲルを中途半端に下げて、別の単車にひっぱられて元町のトンネルを抜けてきたのでした。あわててカメラを取り出して撮影開始です。

(3)渡り線で入庫のために折り返し、元町・桜木町方面の線路に推進運転で入ってきたところです。車庫に押し込まないと営業車の支障になるので、大急ぎでポイントを切って庫内へ・・・536はすでに車庫へのポイントに掛かっています。横浜s37?002R.jpg

(4)500形は横浜を代表する大形鋼製単車、ボギーの1000形も似たスタイルです。一段窓にリベットの多いごつごつしたデザインは、各地の市電に見られますね。横浜s37?002拡大2R.jpg横浜s37?002拡大3R.jpg(5)  広告のコピーが気になったので拡大してみました。「一番よい」とはなんとストレートな・・・今ならその根拠はなんだ?とか突っ込まれそうですが、当時はおおらかなものでしたね。木造の2枚引き戸もいい味出しています。

横浜s37?002拡大R.jpg(6)牽引車708号も拡大してみます。500形より明朗なデザインで、もちろん製造年も新しいですが、車体はなんと木造なんですね。偏って付いたビューゲルは横浜市電の特徴のひとつですが、ピッチングの激しい単車だと、架線にうまく追従するのか?と心配になります(~ガキの頃にはそんな知識は無かったのですが・・・)、サイドの窓上のでっかい広告も横浜独特のものでした。

(7・8)そうこうしているうちに、708+536は車庫の建屋の中に収まりました。おせっかいな親子は様子を見るために車庫の入り口に移動。丘の間の谷底にあった麦田車庫は、こじんまりとしたものでした。歩道の脇に無造作に突っ立った横断歩道の標識や、その奥=線路上に停まっているスバル360の姿も懐かしいですね。横浜s37?003R.jpg横浜s37?003拡大2R.jpg 乗務員さんと車庫の方が大声であれこれ話していました・・「大変だったじゃんか」「いや~参ったじゃ~(??)」とか言ってるのでしょうか?建屋の中をよく見ると、536号の屋根に人が登っていますので、故障はビューゲルまわりですかね。

尚も見ていると、上の画像で左側に停まっていた544号が、車庫の入り口まで出てきました。普通の電車ファンならフルショットを撮るでしょうが、台車オタクの父のネガではこうなります。アメリカブリル社製の台車~形式はえーと、Brill39-Eでしたっけ?横浜s37?004R.jpg(9) 目に付くのは電車の手前、ポイント部分の木のカバー(?)です。コレだけ盛大に出っ張っていると、台車のモーターに当たっちゃいそうです。ガードレール兼用だったら凄いけどまさかねえ。

(10)車庫の横道~コンクリート塀の向こうに電車の屋根やビューゲルを見ながら歩いていくと、親戚の家に着きます。この当時は、車庫の後ろで国鉄根岸線の工事が進行中でした。今の石川町~山手間、石川町から1本目のトンネルを出たあたり。電車の屋根の向こうに米軍ハウスが見えるのも横浜らしい風景でしたが、いまは全く変わってしまいましたね。横浜s37?005拡大R.jpg横浜s37?009R.jpg(11) 親戚の家に行くと、挨拶もそこそこに市電の車庫に出かけては、いつまでも電車を眺めていたものです。麦田車庫にはボギー車もいましたが、単車が多いのも東京都電とは違っていて、中でも木造ダブルルーフの400形を珍しいと思っていましたね。

というわけで、エキゾチックでもお洒落でもない横浜。昭和36年、冬の或る日のお話しでした。

 

 

 


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コメント 11

な◯わ(伏字)

Fはセーラー服だからなあ・・・。
by な◯わ(伏字) (2011-12-15 19:17) 

Reirei

横浜市電ネタはいつも楽しく拝見しております。

ところで写真2の車輌左奥に踏切の警報機のようなものが見えますが、あれはいったいなんなのでしょう。車庫への出入り時にでも動作していたのでしょうか?
by Reirei (2011-12-15 20:11) 

manamana

車両がそうとうがたついていそうですね。
線路もぼこぼこだし、大変な時代ですね。
そうそう自分が生まれた年です。
by manamana (2011-12-15 23:19) 

のり

素晴らしい写真です!! 本当に素敵です。
古典的な電車がわんさか。良い景色ですね。
by のり (2011-12-15 23:20) 

nd502

ビューゲルと単車が時代を感じさせます。
岐阜も岡崎もこんな車両がメインだったようです。
by nd502 (2011-12-16 00:18) 

Cedar

■な◯わ(伏字)様
やはりでしたか。確かにFの生徒は、麦田なんかに降りてこないで元町側に行きますね。
■Reirei様
楽しんでいただいてありがとうございます。
<警報機のようなもの>はホントに警報機でした。道路トンネルを抜けてきた本牧方面の車線が市電と交差する所ですから~最後は普通の交通信号に変わっていたと思います。
■manamana
当時の市電はいずれ消えていく運命を悟っていたように、メンテナンスはおざなりでした。東京も似たような有様でした。
■のり様
ありがとうございます!横浜は6大都市の電車中、単車保有率はダントツだったはずです。当時はわざわざ単車の来るのを待って、ピッチングとローリングを楽しみました。
■nd502様
岐阜や岡崎の単車は雑誌でしか見たことがありません。岐阜などは単車全車が木造だったようですね。
by Cedar (2011-12-16 00:55) 

レッツ教祖

教祖(正式名称はレッツ教祖)です

路面電車の単車って実は乗ったことがないんですよね・・・
明治村とか函館の保存車とかに行ったら乗れそうですが。

想像するにボギー車に比べて、少し速度が上がると上下動とローリングが激しそうな感じですがいかがでしょう?
by レッツ教祖 (2011-12-16 12:50) 

利きゅう

単車のビュゲールも偏倚して設置されていたんですか!それは初めて知りました。
1300や1500などのボギー車だけかと思っていました。

私も単車の電車には乗ったことがありません。2軸車で乗ったことがあるのは名鉄キハ10と紀州鉄道キテツ1のレールバスだけなんです。
by 利きゅう (2011-12-16 21:31) 

Cedar

■レッツ教祖様
横浜の単車に乗る楽しみの一つはその独特な乗り心地でした。
線路がよくないこともあって、大きく首を振って、波を蹴立てて行く船のようでしたね。
香港に行くたびに2階建て2軸トラムに乗って、単車独特の乗り心地を楽しみます。
■利きゅう様
横浜のビューゲルのぴちはなぜああだったのか?理由が知りたいですね。2軸車はオーバーハングが大きいので、カーブやポイントでの車体の動き方がボギー車と違うのが楽しいですが、それはレールバスでも感じられました。
名鉄キハ10になったとき<おお!これこれ>と思いましたよ。
by Cedar (2011-12-17 11:29) 

Cedar


★パルの大冒険
★hanamura
★ひもブレーキ
★maipenrai
★gardenwalker
nice!ありがとうございます
by Cedar (2011-12-17 11:31) 

Cedar

★しまりす様
★メイジ様
nice!ありがとうございます
by Cedar (2011-12-18 23:51) 

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